食べるということ  33 「戦地で食べたビーフン」

撮り溜めていた「相葉マナブ」を観ていたら、「戦地で食べたビーフン」が富士宮焼そばの誕生につながったという話がありました。

たしかに、Wikipeidaの富士宮焼そばの「起源」が書かれていました。

戦後の食糧難の時代に創業者の望月晟敏が戦地で食したビーフンを再現しようと試みた過程でこの蒸し麺が生まれました。 

 「後に会長となる望月は台湾ビーフンの再現を目指していた」とあり、この一文だけでも、知りたいことが次々と出て来ます。

戦地とは具体的にどこだったのか、台湾だったのか、それとも他の国にも「台湾ビーフン」が広がっていたのか。

どのような調理法でビーフンは食べられていたのか。

日本にビーフンが広がり始めたのは、いつ頃、どのような歴史があるのか。

 

富士宮焼そばの説明では、ビーフンではなく中華麺になった背景が書かれていました。

富士宮しは富士山本宮浅間大社門前町であり、富士登山者や寺社への参拝者が多く訪れていた。また富士宮には身延線の主要駅も存在し、静岡県山梨県を結ぶ交通の要衝でもあるため太平洋戦争の前後には山梨県から物資の調達にくる買い出し客や、物々交換で物資を求めて来る人たちもいた。こうした人々の中には山梨県に焼そばを持ち帰りたいという人がいたが、当時の保冷技術と交通手段は未発達であり、山梨県に到着するまでに麺が傷んでしまうという難題があった。こうした課題を克服するため麺作りに工夫がされていったとされる。 

 

*生麺を流通させる*

私が小学生だった1960年代を思い返すと、土曜の昼食は麺類と決まっていたのですが、ラーメンだけでなく焼きそばも乾燥したインスタント麺でした。

生の麺というのは、当時1杯100円のラーメン屋さんで食べるくらいでした。

 

今、スーパーで当たり前のように売られている、冷蔵された生麺が一般向けに流通するようになったのは1970年代に入ってからでしょうか。

 

中華麺を見ると、1980年代から行き来した東南アジアの市場を思い出します。

市場に山盛りになった何種類かの黄色い中華麺が売られていました。ビーフンは乾燥したものがビニール袋に入れられていたのですが、中華麺は生でした。

日本より暑い気温の中に放置されていて大丈夫だろうかと最初の頃は少し心配したのだと思いますが、じきに現地の生活スタイルに馴染んで、市場にあるものは抵抗なく買うようになりました。

あれも加工方法によって日持ちが良いようになっていたのかと、記憶がつながりました。

 

それにしても、あの戦争がきっかけで日本に広がった餃子もそうですが、「戦地で食べたビーフン」、その一言にどんな思い出が詰まっていることでしょうか。

ビーフンやフォーを食べると、さまざまな人の顔や情景が浮かんでくる食べ物なのです。

私の場合、幸いにして「戦地」ではなかったのですが、もしかすると戦地だからこそ現地の人のことを懐かしく思う記憶がたくさん詰まっている食べ物なのかもしれないと、富士宮焼きそばの起源を想像しました。

 

 

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