1990年代に豊田を訪ねたときに黒川清流公園の記憶がまったくなかったので、その歴史が気になりました。
「黒川清流公園徒然日記」というサイトに、「黒川清流公園と市民運動について」としてまとめられていました。
黒川清流公園はどのように造られましたか・・・主に人・市民運動との係わりから
日野市は緑と清流の郷と言われ水と緑を備えた黒川清流公園は市民から最も愛されている代表的な公園です。最近は市外からの訪問者も増えています。
黒川清流公園の成り立ちをたどってみると現在の公園が残されるには多くの人の係わりの中で造られてきたことがわかります。
江戸中期から昭和20年頃まで基本的には大きな変化はなく黒川清流公園付近はタンボがあり雑木林は萌芽更新による里山として生活に利用されました。
大正11年多摩平に宮内省帝室林野局御料林がつくられ今もユリノキの巨木が残っています。
昭和20年頃あずまや池付近では湧水を利用したワサビが栽培されヤツメウナギが獲れたと言われています。ツリボリもこの頃造られました。
高度成長期に入り昭和32〜35年多摩平団地が建設され、人口の増加とともに環境も大きく変わります。
川や用水の汚れ、ゴミの大量投棄がひろがり清水谷公園池辺りもゴミで埋もれてしまうようになりました。
昭和40年頃清水谷公園池のゴミを拾い集め環境に目を向ける人達が現れます。
協力者が増え昭和41年植物、野鳥、昆虫、などの研究家、関心を持つ人、市民が集まり『多摩平の緑を愛する会』が作られ『昆虫と野鳥を呼ぶ会』に発展していきます。
これらの活動、市民の環境意識の高揚のなかで昭和47年『日野の自然を守る会』が設立され、『日野の自然を守る会』の活動は日野市の環境ほど活動に大きな影響を与えていきます。
昭和49年、自然を守る会が6haのまとまった緑地を保全するよう東京都に要望し民有地や市の公園緑地(第1、第3緑地、多摩平第6公園)を含めた一帯の緑地が昭和50年に東京都の緑地保全地域に指定されました。
昭和58〜60年に2500t/日の湧水を活かした公園整備が行われ現在の公園の基礎が造られました。
平成2年『手づくり郷土賞』に選定され、平成18年には国土交通省の『手づくり郷土賞』大賞に選定されました。
あの「一人の方が干潟を残そうとゴミを拾い、長い年月をかけて保存を呼びかけた」谷津干潟の歴史と重なります。
1990年代初頭、ようやくこの黒川清流公園として造られ始めた頃、私は正義感と理想に燃えていた頃で、社会のためと思いながらも、現実の問題に対峙している方々の活動はほとんど目に入っていなかった時期でした。
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