水の神様を訪ねる 3 彩湖と氷川神社

3年ほど前に岩渕水門を訪ねた頃から、荒川もあちこちと歩いて見たいと地図を眺めています。

ただ、荒川だけでなく元荒川の流れやその支流を追っていくと、あまりに複雑すぎてその全体像でさえ頭の中に描ききれないままでした。

 

昨年末、東久留米を実際に歩いたことでで黒目川の流れを地図で辿っていったら、新河岸川に一旦合流するような形で荒川へと流れ、新河岸川はしばらく荒川の右岸に並行して流れているというとても複雑な箇所がありました。

この水色の複雑な部分を見るだけで、おそらくあの仙川と野川が多摩川へ流れ込むあたりのように洪水によって袂をわかつほど水害が大きい場所なのではないかと想像できるのですが、よく見たら、右岸と左岸に「田島」という地名がありました。

 

大きな水色の部分があり「彩湖」とあります。

もしかしたらと検索したら、荒川第一調整池という遊水池でした。

 

この辺りには、両岸合わせて10箇所ぐらい氷川神社があるようです。

1月初旬に歩いてみました。今年は暖冬なので、1月でも「小春日和」と使いたくなるような暖かい日でした。

 

中浦和駅から二つの氷川神社へ*

 

10箇所ほどの氷川神社を全て訪ねるのは時間的に無理そうなのですが、できる限り訪ねようと貪欲な計画にしました。

スタートは中浦和駅です。

澄み切った真っ青な冬の空に、遠く雪化粧をした富士山がはっきりと見えました。そして、赤羽のあたりからは新幹線の線路と並走していますから、何本かすれ違いました。

幸先の良いスタートです。

 

中浦和駅を降りるとすぐに、鴻沼排水路に沿って秋ヶ瀬緑道という遊歩道が整備されていました。それに沿って数分ほど歩くと、田島公園のそばにまずひとつめの氷川神社があります。

当社はこの田島の鎮守として祀られてきた社で、旧社家の栗原芳太郎家所蔵の「朱印状書上」(年不詳・未九月)によれば、すでに慶安二年(1649)には徳川家光から朱印地七石を拝領したことがわかる。

池があり、周囲の地形を見ても荒川の河川敷がそのまま広がったような平地に見えます。水害の記録や、右岸側の田島との関係がどこかに書かれていないかと探してみましたが見つけられませんでした。

 

ここから彩湖へと南に向かって歩く途中に、ふたつめの氷川神社があります。

荒川が近づいているのが、しだいに強くなる川風で感じられました。

当社の社前に「宝しょう池」と呼ばれる神池があり、ここの湧き出る清水は、古来日照りの際にも枯れることがなかったといわれる。この池から平安・鎌倉期のものと推定される土師器(はじき)・須恵器(すえき)が発見されているほか、境内から布目瓦が出土しており、当社の創建が古代までさかのぼりうる可能性を示唆する。いずれにしても当社はこの辺り一帯の耕地を潤す水源に水神として祀られたことは想像に難くない。

 

すぐ近くに荒川の堤防沿いに作られた新大宮バイパスもあり、河川敷まで300mぐらいの場所ですから、水害から守る神様かと思ったら、水源を守る水神様のようでした。

 

彩湖へ*

 

中浦和駅からこのふたつめの氷川神社まで4km弱ぐらいでしょうか。暖かい日だし、平地だから楽勝と思っていたのですが、次第に強く感じられる川風の中を歩いていて少し心がくじけそうになってきました。

 

でも目の前に彩湖があるはずですから、なんとか堤防を登り切ってみました。

想像とは違い、ところどころに少し水があるぐらいで、目の前には広大な広場が広がっていました。遊水池ですものね。

Wikipediaの「荒川第一調節池」によれば1997年に完成したあと、1999年の記録的豪雨、そして昨年の台風19号の際にも「史上2度目の稼働」と書かれています。

 

「効果」の一番には洪水調整が書かれるのかと思ったら、「それまでの夏の水不足が緩和されるようになる」とあるのが意外でした。

大きな川があるからといって水に恵まれているわけではなく、湧水と渇水は背中合わせということでしょうか。

 

 

とても彩湖全体を歩くのは無理そうですし、端の方にある彩湖自然学習センターを訪ねるつもりでしたが、地図以上に遠いところにありそうで断念しました。

 

目の前に、荒川にかかる大きな橋があるのですが、東京外環自動車道なので人は渡れなさそうです。

対岸へ行くには、武蔵浦和駅あたりへ戻って、鉄道で行くしかなさそうです。

 

まだこれから対岸の数カ所の氷川神社を回る予定です。

バスで一旦、武蔵浦和駅へ出て武蔵野線に乗ることにしました。

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら