記憶についてのあれこれ 158 「性欲をコントロールしなさい」

中学生になるかならないかという時期に、私と兄弟を前に今日のタイトル通りのことを父が話しました。

それが半世紀ほど前の、我が家の性教育でした。

 

70年代ごろはようやく自由な恋愛や結婚がジワリと浸透してきて、少女漫画の中のストーリーに心をときめかせていたというのに、「女性は大学に行く必要はない」という半世紀ほど前の女性に対する社会の価値観にくわえて、なんだか「性」とはおどろおどろしい厄介なものだという気持ちになり、なんと古いことをいう親だろうとちょっと見下したのでした。

 

それとともに、今まで性別を気にせずに一緒に育ってきたはずの兄弟の「性」を感じるきっかけとなり、のびのびと暮らしていた子ども時代がこのひと言で終わりになってしまったような、なんとも不快な言葉に感じていました。

 

その後、「あんなことはどの国でもやっている」と言った父を許せなくなり、長い間、ほとんど話すこともなくなったのでした。

 

*本質的なことを伝えようとしていた*

 

知らない男性に通りすがりに胸を触られた。

それがその後何十年経っても記憶に残り、悔しさだけでなくなんとも惨めな気持ちになるのはなぜだろうと、性犯罪のニュースを聞くたびに思うのですが、なかなか言葉にならないものです。

 

一方的な被害者感情というのでもなく、自分の身内が性犯罪を犯すことへの不安ともいえるでしょうか。

あの時の若い男性にも家族がいたでしょうし、もしかしたら姉妹がいたかもしれない。

衝動を抑えられずにした行動がどういう意味を持っているのか、犯罪とはどういうことなのか、自分を直視する機会はないかもしれない。

加害者は生み出されているのに何も手を打つことができないのか、しかも30年ぐらいたってもあまり状況は変化していない、というあたりに惨めな気持ちになるのかもしれませんね。

 

さて、性犯罪というと男性から女性へという確率が高いのかもしれませんが、父は兄弟に向かって「男性だから性欲をコントロールしなさい」と言ったわけでもなく、私に対して「男は狼だから女性として気をつけなさい」と言ったのでもありませんでした。

両性に向かって、タイトルの言葉を伝えたのでした。

 

今考えると、本当に本質的なことを父は伝えようとしていたのだと。

そしてそれは父のどこから出てきたのかというと、やはりあの戦場で見聞きした現場の狂気からではないかと想像するのです。

 過ちを重ねないように、と。

 

 

でもなかなか性の話も、人の気持ちの話も難しいですね。

身もふたもない話になりやすいので。

 

 

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