散歩をする 114 木曽三川

おそらく昔の紙の地図であれば、「大きな川が三本近づいて流れている場所」くらいにしか見えなかった部分を、パソコンの地図であれば拡大し、そして航空写真で見ることができます。

揖斐川長良川木曽川がもっとも近づいた部分に「木曽三川公園」があることも、地図を拡大できたからこそ知ることができました。

 

この公園にいつか行ってみたいと思い、その歴史をたどっていくと木曽三川分流工事が明治時代に行われ、現在の川の流れが造られたことを初めて知りました。

木曽川長良川は高須輪中の東部(東海大橋上流から現在の海津市海津超外浜付近まで)を新長良川とし、立田輪中の西部(現在の愛西市葛木町から立田町まで)を新木曽川とし、間にケレップ水制の技術を用いた堤を築いた。現在の国営木曽三川公園油島千本松締切堤で揖斐川長良川が完全に分流され、新木曽川と新長良川に挟まれた福原(現在の愛西市立田町)には船の往来を可能とする船頭平開門が建設された。 

地図に揖斐川長良川の間に細い堤防が途中までありますが、これが「ケレップ水制の技術を用いた堤 」のようです。

 

オランダ人技師ヨハネス・デ・ケーレが1878(明治11)に調査を開始し、1887年(明治20)着工、全行程完了は1912年(明治45)とあります。

あの江戸川の水準標石を定めたリンド技師もそうですが、遠く祖国を離れて技術を伝えようとした強い動機は何だったのでしょうか。

 

この木曽三川公園に立って、三本の川が流れている様子をぜひ見てみたいと思いました。

養老鉄道の駅からは少し離れているのですが、どうやら海津市のコミュニテイバスが通っているようです。

 

木曽三川公園へ*

名古屋からは干拓地らしき場所の上を通過する近鉄に乗りました。車窓からは、干拓地というより住宅地になった場所の方が多いような印象でしたが、まっすぐな用水路の跡と思われる場所が見えました。

名古屋で発車までの間に、伊勢湾台風について読み直していたら、以下の部分を読み飛ばしていたことに気づきました。

南寄りの暴風で、海水が熊野灘・伊勢湾・三河湾の最奥部に吹き寄せられ、和歌山県南部から愛知県までの広い範囲で高潮による浸水が発生し、名古屋市南区付近は、1ヶ月以上も水が引かなかった地域があった。名古屋市南部(南区・港区)、及び、隣接する海部郡南部(蟹江町、飛鳥村、弥富町(現弥富市)、十四山村(同市)など)知多郡北部(大高町(現名古屋市緑区)、上野町(現東海市)など)は江戸時代に遠浅の海を干拓してできた新田で、海面下2-3mの土地もあったため、高潮により、一旦、海岸堤防が破壊するとひとたまりもなく水没した。 これら低地の復旧のためには、まず、堤防を完全に作り直した上でポンプにより海水を排水しなければならなかったため、水没地域が完全になくなったのは被災から半年たった翌年3月下旬であった。その間、多くの世帯の汲み取り式便所の汚水があふれ出たままとなり、また孤立した人々の排泄物も停滞するなど、公衆衛生が著しく悪化した。

車窓から見える街は江戸時代に造られた干拓地であり、 伊勢湾台風でも被害がひどかった地域であったことが結びついたのでした。

 

名駅から養老線に乗り、美濃松山駅に向かいました。

そこからコミュニテイバスに乗り、揖斐川を渡り、揖斐川長良川に挟まれた場所を眺めました。「沼」というバス停があるように池などがあちこちにあり、大きな三本の川が流れを変えながらつくった地形のようです。

 

いざ、目的地のバス停で下車。

長良川の堤防に出られるという、目の前にある大きな建物に入りました。

揖斐川よりもさらに水量が多い流れが、目の前に広がりました。長良川の対岸の堤防の向こうには木曽川が流れている場所です。

手前の堤防に沿って、治水神社を目指して歩きました。

歩けど歩けど、なんだか道が違うようです。地図では、三本の川を繋いだ橋が近くにあるはずですが、遠くに見えます。

 

ああ、木曽三川公園サービスセンターで降りるつもりが、一つ手前の長良川サービスセンターで下車したのでした。痛恨のミスです。

あんなに何度も時刻表を確認して、準備したのですけれどね。

まあ、近鉄線で木曽三川の上を通過したからよしとしましょう。

長良川を眺めながらお昼ご飯のサンドイッチを食べ始めたところ、蜂が近づいてきました。結構大きな蜂です。逃げようとして、サンドイッチを地面にぶちまけたのでした。

しかも座った土手にはなんだかわからないけれど、服にくっつく植物があって、コートはそのトゲだらけになったのでした。

泣きっ面に蜂、自然は手強いですね。

 

*治水神社と宝暦治水事件*

出発前は訪ねる場所や時刻表を確認することに追われたので、治水神社については調べずにいました。

あとであらためて読むと、「1938年(昭和13年)建立」ということで比較的新しい神社のようですが、その歴史は壮絶なものでした。

平田靭負は、宝暦4~5年(1754~1755年)、薩摩藩が幕府の命で行った、木曽三川分流の治水工事(宝暦治水)の責任者であった。治水工事が終わると、莫大な工事費用と数多くの藩士が亡くなったことの責任を取り自害している。

宝暦治水事件では、「工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靭負も自害した」と書かれています。

 

「大きな川が三本近づいて流れている」場所の歴史を、あまりに知らなさすぎました。

名駅に戻る列車の車窓からの風景を眺めながら、父はどのあたりに派遣されていたのだろう、何をその時に思ったのだろうと、生前に父の経験を聞かなかったことを悔やんだのでした。

 

 

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