諫早行きのかもめが西へと方向を変え始めたあたりから、一瞬たりともその風景を見逃さないようにしようと思っていたのが、諫早湾干拓地の締め切り堤防です。
事前に地図を何度も見て、おおよその場所が頭に入っています。
1997年4月14日にその潮受け堤防の水門が閉じられた時のニュースは、岸側から鉄板が次々と海に落とされていく様子から「ギロチン」と報道されました。
当時は、村井吉敬さんたちと全国のダムや新潟の関屋分水など大型公共事業を見に行っていた頃でした。
繰り返し映し出される「ギロチン」と干潟のムツゴロウ、なんと残酷な映像だろうと心が痛んだのでした。
当時、私は全国の水田にどんな歴史があったかさえ、知らなかったのでした。
さて、遠くにまっすぐな堤防らしき場所が見えてきました。
コンクリートの無粋なものだろうと想像していたら全く違い、石積みの堤防が続いているように見えます。その壁面に何か植物が生えているのでしょうか、遠目に緑色に見えました。
一世紀も二世紀もそこにあったかのように、周囲の風景の一部のように見えました。
あの映像から四半世紀が経っていたのですね。
最初に印象に残ったものは、なかなかその後の変化を受け入れられないことがあります。
途上国の「貧困」も同じでやせ細った親子の写真はインパクトがあるのですが、そこからその地域の実際の生活はどうなのかまではなかなか想像できないものです。
細かな歴史や生活を知らないと、批判に目を曇らせてしまい、栄養失調児の親もまた栄養不良 という当たり前のことさえ見えなくなって、世の中が大きく動いてしまうことがあるのですね。
あの「ギロチン」の映像から24年、私が見落としていたものは何か。あるいはあの映像のイメージだけで思い込んでしまったことは何か。
今回の遠出の一つの課題でもありました。
もちろん諫早湾干拓事業の全体像はとても私にはわからないのですが、まずは身を晒し、そしてこの干拓事業については批判的なニュースが多く耳に入りやすいのですが事実とは何か淡々と追ってみよう、そんな感じでした。
「善意からくる『不正義』に対する怒り 」は、それが本当にどのような事実なのか知らないと、声が大きくなり思わぬ方向へ世の中を動かしてしまうし、自分自身が少しでもそれに加担したことは忘れやすいものです。
この日に訪ねる場所から、私は何を得るだろう。
ちょっと緊張しながら駅に降りたのでした。
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