行間を読む 202 備前渠用水の石碑と年表

備前渠用水路のそばに立つ大きな石碑は一見新しく見えたので戦後のものかと思ったのですが、裏に回ると昭和7年(1932)のもののようです。

 

わずか90年ぐらい前の方々は、難しい漢字や言葉を使われますね

碑文の一番上に禾黍油油のような4文字が彫られているのですが、難しい字体になっていてまず読めません。

碑文自体は昭和初期なのでおおよそ読めましたが、当日の写真を見直すと風化したり光の加減で読めない部分がたくさんあるのでここに書き写すことは断念しました。

 

最初の頃はここから現在の羽生市のあたりまで灌水していたが途中で深谷のあたりまでに変更になったらしいこと、以前は2本の水路だったものが明治19年に圦樋を造り、さらに大正7年利根川改修の際に国庫負担で第3樋門が造られたが、利根川の砂礫ですぐに埋まりやすくその土砂を除くための労働や減収で疲弊していたこと、この頃はまだ利根川本流の流れが変わるため取水口を造ることができなかったようなことが書かれているようです。そして昭和5年、ようやく堤防を貫くように新導水路を開削した、という内容でしょうか。

 

 

*二つの年表をつき合わせてみる*

 

備前渠(びぜんきょ)用水路土地改良区のホームページに、「主な歴史」の年表がありました。

 

慶長9年(1604年) 伊奈備前守忠次により開削

万治2年(1659年) 福川を境に上下流に分かれ上流部を備前渠と呼ぶようになる

寛保2年(1742年) 寛保の大洪水により元圦が壊滅

天明3年(1783年) 浅間山の大噴火

寛政5年(1793年) 幕府により元圦が壊滅

 

現代まで使われている用水路ではありますが、その元圦(もといり)は何度も変更されてきたようです。

 

「幕府により元圦が壊滅」とは何を意味しているのだろうとWikipediaの「沿革」を合わせて読むとこういうことでした。

1793年(寛政5年)ー烏川の河道の上昇に伴い、元圦の締切。下流に水が来なくなり、水争いや裁判が行われた。

利根川が運ぶ土砂により、しだいに取水量が減ったのでしょうか。

 

「いやだちゃ 行きたくないちゃ 黒森の普請 川普請 度々困る」と残されたような川普請(かわぶしん)の労働に駆り出されることへの大変さとか、水争いのために江戸の幕府評定所まで出かけなければならず、途中、敗訴して獄死という無念さ江戸時代から昭和まで続いた水争いといった各地の話を思い出しました。

 

*用水路が復旧するまでに35年*

 

備前渠用水土地改良区の年表では、次に以下のように書かれています。

文政10年(1827年) 取水口を利根川右岸に移設

文政11年(1828年) 用水路復旧

 

幕府が元圦を壊してから復旧まで35年も待つことになったのですから、現代のインフラの驚異的な速さの復旧と比べると気が遠くなりますね。

 

Wikipediaでは以下のようにこの用水路復旧について書かれていました。

1828年(文政11年) 漸く取り入れ口の復旧工事が開始される。その後43日間で通水する。取水口は利根川や烏川の乱流域に位置するため、その後二度も変更工事が実施されている。

 

 

昭和5年の改修*

 

昭和5年の改修について、備前渠用水土地改良区の年表では「本庄市山王堂へ元圦を移設」とだけ書かれていますが、Wikipediaによると「1921年(大正10年)の大水害の発生に伴い、元圦(取水口)の改修が行われる」とあります。

1921年の水害を検索すると四国などの大水害については見つかるのですが、利根川についてはわかりませんでした。

 

その後、戦争の時期をまたいで「1958年(昭和33年) 県の排水改良事業が着工される。取水口や導水路(暗渠・開渠工)などの抜本的な改良に着手する」こととなり、1965年(昭和40年)に完了したようです。

 

堤内に見えた第3樋門から堤防をくぐって備前渠用水路が滔々と水を運んでいる風景は、途中の長い長い改修の歴史によるものだったことを簡素な記述の年表から知ることになり、そして碑文の内容を少し正確に読むことができました。

 

「漸(ようや)く、復旧工事にたどりついた」

昔の人は、何度この思いに耐えてきたのでしょう。

 

 

 

*おまけ*

 

備前渠用水路土地改良区のサイトを読み、この事業にもムルデルが関わったことを知りました。

埼玉県初の煉瓦造り水門

1887年に本庄市久々宇地内に移設された取水口(現在の第3樋門は、オランダ人土木技術者ムルデルが設計した埼玉県初の煉瓦造り水門で、当時の最新技術が導入されており、煉瓦造り河川構造物の先駆けになっています。

 

また用水路の橋に使われた煉瓦は渋沢栄一が関わっていることも書かれていました。

明治20年(1887年)、渋沢栄一らにより「日本煉瓦株式会社」が設立されました。

明治28年(1895年)に、深谷市上敷免の工場で製造した煉瓦を輸送するための専用鉄道線が開通しました。

備前渠用水路を横断するこの鉄橋は、プレートガーター橋と呼ばれ、隣接する煉瓦積みのアーチ橋とともに「国の重要文化財」に指定され、専用線敷地は歩行者専用の遊歩道として親しまれています。

 

 

江戸時代から明治時代へ、それまでの技術や経験が生かされ、人々の意識が大きく変化しながら驚異的に変化した時代だったのだと興味が尽きません。

 

 

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