記録のあれこれ 84 イタイイタイ病資料館

高山本線がもう一度神通川を超えて、富山駅に到着しました。

車窓から見る神通川流域の風景は、それはそれは美しいものでした。

 

昨年、地図で見つけたイタイイタイ病資料館を訪ねます。

富山駅からバスで35分ほど離れた場所にあります。神通川の右岸に富山空港があって、その近くの水田地帯の中にありました。

 

1960年代、小学生だった頃に駿河湾のヘドロ同じく公害としてよく耳にした川と公害病でした。

そして足尾鉱毒事件と同じく、水によって被害が広がる公害病のイメージで、それもまた「水辺はゴミや生活排水を処理する施設に近い感覚」が残っていた時代だったと言えるかもしれません。

 

子どもの頃からニュースで耳にしていたイタイイタイ病で、なんとなくその症状や原因は理解していたものの、成人してからはニュースも減り、その全体像を知る機会もないままでした。

1970年代終わり頃に看護学生になった頃も、公害病としてのイタイイタイ病を学んだ記憶がありません。

当時はまだ渦中で、まだ現代史としての公害病の総論さえなかったのも当然だったのかもしれませんね。

 

 

イタイイタイ病資料館

 

新型コロナで旅行自粛ムードですし、市街地からも離れているので訪れる人もいないだろうと思ったら、同じバスに乗っていた20代ぐらいの方が同じ目的でした。

 

富山県イタイイタイ病資料館」は2012(平成24)年4月に開館したそうで、まだ新しい資料館のようです。

そのホームページに、「次世代を担う子どもたちにも興味や関心を持って学んでもらえるよう、イタイイタイ病を時間の流れに沿って、ジオラマ、絵本、映像などを組み合わせ、わかりやすく解説するとともに、環境の保全と創造に向け、先進的な取り組みを進めてきている本県の最新の環境施策などを紹介する展示室を設けています」とあるように、小学生ぐらいの子どもたちが理解しやすいようなワークシートが準備されていたり、ビデオが何本もあってわかりやすいものでした。

 

私の記憶の中の公害病というのは、のぼりを掲げシュプレヒコールをあげながら被害を訴える「闘い」「闘争」というイメージが強く、それだけ社会に認知してもらうことが大変だった時代でした。

ところが、このビデオの中には1972年から毎年住民の代表が立ち入り検査に参加して企業側と話し合う様子も残されていました。住民参加という、驚異的に変化する時代だったのでしょうか。

 

Wikipediaイタイイタイ病の「補償と発生源対策」に土壌復元工事について書かれていますが、展示でもその様子が説明されていました。

土壌汚染については、1974年(昭和49年)8月に神通川左岸の67.4haが「農地汚染防止法」に基づく汚染地域に指定されたのを皮切りに、最終的に1630haが汚染地域になった。1979年(昭和54年)から土壌復元事業が始まったものの、工法や費用の難問が山積みになっているため、工事が遅れていたが、2012年3月17日に完了した。

土壌復元事業の完了した頃に、この資料館も誕生したようです。

 

 

 *社会の未熟さも記録する*

 

展示の中で印象に残ったのは、1955年の報道の内容でした。

まだ原因がわからない時期なので混乱は仕方がないのかもしれませんが、当時は「悪い行い、運命」といった根拠のない差別が伝えられていたことでした。

不安が共鳴しあって社会は思わぬ方向へ向き、そしてその不安を手放したくない人の気持ちが出てくることは、何度も経験してきました。

そしてこの新型コロナウイルス感染症拡大でも不正確な情報や誹謗中傷で、政治家や報道機関、そして医療の専門家とみなされる人たちさえも混乱している様子を見ると、1955年当時はいかばかりだったことでしょうか。

 

資料館の周りは水田地帯で、黄金色に輝く稲穂が一面に広がっていました。

マスクを外して、思いっきりかぐわしい空気をいっぱい吸いながら歩きました。

土壌復元事業が完了するまでの長い間、デマや差別とともにどのような風評被害があったことでしょう。

まだ資料館には展示されていないたくさんのこともあることでしょう。

現実に、社会が動揺することが起きるたびに流言飛語・風評被害が繰り返されているのを見ると、社会の事象を記録に残すことは本当に大変ですね。

 

 

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