海岸沿いにもう一つ説明板がありました。
和歌の浦は万葉の家人、山部赤人(やまべのあかひと)の歌一首によって全国にその名を知られた。
若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たず)鳴き渡る
神亀元年(七二四)聖武天皇は始(*ママ)めて玉津島に行幸し、和歌の浦の景観を絶賛して、景観保全のために番人を置き、地霊祭祀の制度を定めた。赤人の歌はその時作られた玉津島讃歌の反歌の一首である。
当時、紀の川は河口を和歌の浦に大きく開き、そこに小島を六つ浮かべていた。それが玉津島であった。現在それらは妹背山、鏡山、奠供(てんぐ)山、雲蓋山、妙見山、船頭山の名で呼ばれ、妹背山一つを海上に残してみな陸地化している。しかし千三百年昔、赤人が「神代よりしかぞ貴き」とたたえた玉津島山の面影は、鏡、奠供、雲蓋の三つの岩山にも今も見ることができる。
この万葉の「若の浦」は、平安時代に入って「和歌の浦」となり、歌枕の代表として近世の終わりまで無数の詩的イメージを生んだ。
一方、現実の和歌の浦の地形は、自然的、人工的に古代以来幾度変遷を重ねた。人工的変化は近世からが著しい。玉津島神社、天満宮、東照宮、海禅院多宝塔、観海閣、不老橋はこの期の造営である。
令和四年九月 和歌山市
(強調は引用者による)
「当時、紀の川は河口を和歌の浦に大きく開き」、現在の紀の川河口のあたりは放水路なのかもしれないと地図を眺めていて閃いたのですが、放水路ではないにしても正解に近かったのでしょうか。
ただ、Wikipediaの「紀の川開発史」を読むと、まだ議論はありそうです。
1400年代の地震・津波によって砂丘が崩壊されたことにより、紀の川は和歌浦へ注いでいた河道から現在の紀伊水道へ注ぐ河道に変わった。なお、和歌浦へ注いでいた旧河道は和歌川として残っている。ただし近年では、和歌川の横断面に河床跡の砂礫が認められないことから、かつて和歌浦に注いだとする復元説には否定的な説が挙げられている。
川の流れひとつにしても、長い間の事実を遡るのは大変なことですね。
「水のあれこれ」まとめはこちら。