つじつまのあれこれ 38 「社会の宝」から「国の宝」へ

先日ニュースで耳にした「こどもは国の宝」という表現に、ああやはりこの国はなんだか後退してしまったのではと不安になりました。

 

たしか1990年代ごろは「子どもは社会の宝」という言葉が広がって、それまでの家族の中の子どもというとらえ方から社会全体でとらえる雰囲気になったことに、世の中はこうして前に進むものなのだとちょっと感激した記憶があります。

同じ頃、東南アジアを行き来していて、教育や医療を受けられないこと、栄養不良や貧困、そして児童労働や子どもの頃から戦闘要員にならざるおえない過酷な状況に、子どもらしくというのはどういうことかという世界の問題と、日本の経済的な豊かさの中での子どもを育てることの新たな問題の葛藤に、「社会の宝」という視点ができたことに希望を感じたのでした。

 

1960年代初頭に子どもだった私の世代は1947年の児童福祉法によって守られ、母子手帳には「すべての児童は、心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される」という児童憲章から始まっているのですが、その普遍的な宣言に至るまでの気が長くなる歴史、先代までの犠牲から、子どもの時代を守られた初めての世代かもしれません。

 

それでも1990年代はまだ「社会の宝」というのは、あくまでも「日本社会の」というニュアンスでしたが、それはきっと人類の宝へと進歩する方向性があると確信していました。

 

 

*2000年代に入って風向きが変わったのかもしれない*

 

「社会の宝」で検索すると、「『社会の宝』として子どもを育てよう!」という文部科学省の資料が公開されていました。

2002年ごろの「今後の家庭教育支援の充実についての懇談会」の資料のようですから、やはり私の記憶もそれほど間違っていなさそうです。

 

次に「国の宝」で検索すると、先日の首相の発言ではなくこんな解説が出てきました。

「子供は国の宝」発言への批判

 

2007年(平成19年)2月15日、参議院厚生労働委員会で、安倍首相が今国会の施政方針演説で「子供は国の宝」と述べたことについて、「子供は経済や年金のために生まれるのでない。子供は国のために生まれるという発想があるのではないか」と批判した。ただし、自身が所属する民主党の「次の内閣厚生労働部門〜民主党の政権提言〜」に「子どもは国の宝」と挙げられており、また、2006年4月に民主党が提出した「小児医療提供体制の確保等のために緊急に講ずるべき施策の推進に関する法律」にも同じ言葉が使われている。さらに民主党議員の郡和子も2006年4月に参議院本会議において「子どもは国の宝」と述べているが、千葉がこれらに対して批判したという事実はない。

 

Weblio辞典」より、強調は引用者による

 

「子供は経済や年金のために生まれるのでない」

こんな真っ当な考え方も、イデオロギーで離散集合したねじれた政党間の議論ではかき消されてしまうのでしょうか。

 

そして2021年には子ども庁の創設について、菅元首相が「子どもは国の宝でここにもっと力を入れるべきだ。光を当てる政策をきちんとやっていきたい」(2021年4月5日、日本経済新聞)と発言した記録がありました。

 

2000年代初頭の「社会の宝」から「国の宝」になった背景に今まで気づかなかったけれど、昨年のあの日からいろいろ考えると、パズルが解けました。

さらにどの国でも国会議員になることがその家の子どもの役目という古い風習が残り続け、家系図まで出てくるのですからやはり明らかに何かが後退していると感じるこの頃ですね。

 

 

まあこんな時代の葛藤を経て、「子どもは人類の宝」であり、「かつて子どもだったすべての人もまた人類の宝」であるという普遍的なことが生き残るのだと希望を捨てないようにしましょうか。

 

 

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