水のあれこれ 314 丸池と水争い

韮山反射炉を訪ね、韮山土手和田から狩野川の旧河道をたどり、散歩の1日目の計画は無事に実現できました。

ホテルの窓からは昨年と同じように南箱根ダイヤランドの灯りが夜空に輝いていて、今回の散歩ではそのそばにある水田も思い浮かべることができました。

 

6月初旬の散歩の2日目はまず境川沿いに狩野川まで歩き、そこから少し下流柿田川沿いを歩く予定です。

 

2019年1月に柿田川湧水群を訪ねた後に立ち寄った丸池が、今回の散歩のスタートです。

三島駅前から沼津行きのバスに乗りフローラルアベニュー柿田川バス停で下車し、数十メートルほど東へ歩きました。懐かしい大きな水面が広がっています。

2019年はどちらかというとコンクリート張りのこの池は通り過ぎて、その北側にある清住緑地の湧水に気がとれられていました。

 

久しぶりの丸池はなんだか雰囲気が違いました。池の真ん中まで遊歩道があり、東側には小さな公園が整備されています。以前もこんな感じだったのか記憶になかったのですが、検索するとちょうどその時は公園の整備工事中でじきに完成していたようです。

 

*丸池の碑*

 

そして池の真ん中に石碑があり、近づいてみると大小二つの細長い石碑とその間に小さな祠と立て札がありました。

丸池の碑

 昔この池の水利について玉川村と泉六ヶ村と諍いがあり、文政七年に泉六ヶ村から幕府評定所へ訴え出た。玉川村から名主丈八郎、泉六ヶ村からは総代として戸田村名主安右衛門、湯川村名主清兵衛が江戸表へ出たが事件の片付かぬうち二人は客死した。明治の初め玉川村の公明な態度により示談し、この池を泉六ヶ村と玉川村の共同民有地に編入した。以降、泉耕地の田地用水に不安不足を覚えることがなくなった。

 二人の名主が客死して丁度百年忌に当たる大正十二年五月、清水村長高田譲八郎が両氏の追悼のため池の大改築をなし、かつ碑を建てて後世の人々に伝え、今後この水源地を益々大切にすることを望み建立されたものである。

 平成二十九年五月  丸池かんがい用水土地改良区

 

Wikipediaの「丸池」にもう少し詳しい説明がありました。

 

歴史

元亀3年(1572年)付で発給された朱印状に、築堤についての記述が見られる。戦国時代であった当時、この地を収めていた戦国大名後北条氏が発給したもので、丸池の建設に関する記述であるとされる。現在の三島市楽寿園にある小浜池からも千貫樋を通して水を引いた。

千貫樋とつながって、この地域の水の道が少しまた見えてきました。

 

文政年間(江戸時代)、丸池で大きな水争いが勃発した。玉川村の高田氏が丸池に水車を設置し、水を境川に引水。これにより水田が荒廃したとして、周囲6ヶ村は玉川村と対立した。戸田村の名主・安右衛門と、湯川村の名主・清兵衛の2人が6村の総代表として江戸の奉行所へ訴え出たものの敗訴、獄死するという結果に終わった。

 

諍(いさか)いから村の代表を獄死で失い、その後池を共同民有地にして用水に不安や不足がなくなることを人々が認めて納得するまでにも時間が必要で、そしてこうした形で記録に残すにも一世紀が必要だった。

 

溜池にもまたそれぞれの歴史がありますね。

 

池の真ん中の遊歩道に立つと、遠く富士山がくっきりと見えました。

しばらく公園のベンチに座って、どこからともなく聞こえる湧水の音に聞き入りました。

 

 

 

 

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