行間を読む 201 「成功は社会のおかげ」

「渋沢栄一が好んだ煮ぼうとう」を食べたら気が変わって生家に立ち寄ったのですが、その駐車場にもまた渋沢栄一氏の説明がありました。

 

我が人生は実業にあり。 渋沢栄一

 

天保十一年(一八四〇)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。昭和六年(一九三一)九十二歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。日本実業界の祖。稀代の天才実業家と呼ばれる所以である。

男の転換期。慶応三年(一八六七)十五代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。

二十八歳の冬であった。栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくななまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャーショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貪欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。

他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。

二年間の進学を終え、明治元年(一八六八)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向かって、一途に歩み始めた。

帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治六年(一八七三)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により大きく開花した。

以降、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。

栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。

私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。

失うことのなかった、心の若さ。そこから生まれた力のすべてを尽くして、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並外れた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。

 

昭和五十九年九月一日

 

 

1984年(昭和59)、日本が「先進国入り」し、私も「豊かな国が貧しい国を助けるのは当然」と意気揚々と東南アジアへと向かった頃ですね。

 

それからわずか10年もしないうちに、自分の労働の対価にあった身の丈にあった生活とは違う生活形態の人が急激に増えました。その後じきに経済が低迷し持つものと持たないものの差が広がったというのに自己愛や自己実現のブームは続いてその成れの果てのような「自分を大きく見せたい」「人に影響を与えたい」という虚の世界は続き、とうとう政治家までも自分の権力と利益を守ることを隠さない人たちになってしまいました。

 

「過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのがこの男の身上」

サウロの回心はどの時代にも誰にも起きる可能性があり、それが時に大きな変化へとつながっているのでしょうか。

 

そして昭和59年に描かれた渋沢栄一氏と、現代の「機を見るに敏。時代を先取りするのがうまく見える人」との違いは、やはりここかもしれませんね。

栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主であった。

私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。

 

そのまた父からの「藍で村全体が豊かになれば」という思いをひきついだのでしょうか。

 

もちろん渋沢栄一氏も良い面だけではないことでしょうが、あちこちに出現した明治以降の先覚者の話に、1980年代のあの希望に満ちた社会を経験できたのはこの時代が原点だったのかもしれないと思い返しています。

 

 

もし、この信念が途切れずに受け継がれていたら、日本の社会保障制度や社会福祉はもっとすごいものになっていたのではないか、生きることに絶望する人が減っていたのではないかと、ここ30年ほどの寄り道というか逆行が残念に思えることが増えてきました。

 

まあ、こうやって時にが解体される流れがきて、人間の歴史は普遍性のある方向へと向かうことを繰り返すのかもしれませんね。

 

 

 

*おまけ*

 

駐車場のそばにあった休憩所のトイレ内はきれいに清掃されていて、その中まで渋沢栄一氏の説明板があちこちに掲げられていました。

ほんとうにこの地域で生き続けている人なのかもしれませんね。

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら