地図で見つけた用水路が寺谷用水だとわかり満足しながら、用水沿いに歩きました。
帰宅したら寺谷用水で検索すれば、またいろいろなことがわかることでしょう。今日はその水面とその向こうに広がる水田地帯を見ることができれば十分だと思いながら歩くと、水路沿いの小高くなった場所に何やら石碑が見えます。
近づいてみると、田んぼを見下ろすように石碑が並び、周囲には桜が植えられていて春は幻想的な場所になりそうです。
何か案内板がありました。
寺谷用水旧取水口【大圦樋(おおいりひ)跡】
寺谷用水の取水口【大圦樋】は、堤防と大型の木製函渠(かんきょ)(幅4m、高さ2m、長さ21m)を組み合わせる形で設計されました。これにより、取水と同時に暴れ天竜と呼ばれた天竜川の氾濫から農地を守る機能を実現しました。この技術は治水と利水を一体的に行う革新的な技術導入の先駆けとなり、水田農業の発展に大きな影響を与えました。
この大圦樋と合わせて、1590年に延長12kmの水路(大井堀、おおいぼり)を完成させ、各村への円滑な配水と水路の維持管理のため、農民による組合「井組(いぐみ)」を組織しました。現在「井組」は、寺谷用水土地改良区や水利組合に継承され、430年以上にわたる歴史と共に継続されています。
このような功績が認められ、令和4年10月6日世界かんがい施設遺産に登録されました。
目の前に広がる冬の田んぼの景色に、そんな歴史があるとは。
案内板と石碑の置かれた小高い場所、それは水田と治水、利水の歴史を静かに思う場所でした。
*寺谷(てらだに)用水の歴史*
帰宅して検索すると、寺谷用水土地改良区のホームページに説明がありました。
大河川から取水する広域かんがいシステムの草分け
寺谷用水は1590年に完成し、大河川の治水と利水を一体的に行う革新的なかんがい技術導入の先駆けとなった。その技術は日本のかんがいの進展に大きな影響を与えた。
水路建設のプロジェクトは、農業開発を通じた経済成長を目指し、後に江戸幕府の将軍となる徳川家康の命で始まった。その命の下、家臣の伊奈忠次が企画し、代官の平野重定が工事を始めた。彼らは、暴れ天竜と呼ばれた天竜川の氾濫原から農地を分離する堤防とともに、幅4m、長さ12kmの水路を建設した。水路は着手から完成まで2年を要し、新たに開田された400haを含めて2,000haの水田を潤した。
このプロジェクトでは、水路の取水口部における洪水の越流を避けるために、取水工は堤防と木製の函渠(圦樋)を組み合わせる形で設計された。函渠は堤防と交差させて埋められ、洪水から農地を守るため、堤防は函渠の上にも造られた。
完成後、大河川における堤防と函渠を組み合わせた画期的なシステム(関東流、伊奈流)は高く評価され、江戸幕府はそのシステムを国内の多数のプロジェクトに適用した。
また、平野重定は、73か村への円滑な配水と水路の維持管理のため、農民による組合「井組」を組織した。現在、「井組」は寺谷用水土地改良区や水利組合に継承され、400年以上にわたる歴史とと共に、用水及び施設管理を継続している。
治水と用水路の歴史に重要な場所を、ふらりと訪ねていたのでした。
そして利根川流域や見沼の歴史をたどるうちに知った伊奈忠次氏ですが、この地でも深い関わりがあったようです。
江戸時代は決して遅れた時代ではなく、当時の土木技術や農民の実践力をまた知ることになりました。
半世紀どころかもっともっと長い歴史で培われた何かがあるからこその、どっしりとした風景なのかもしれません。
地図で見つけた「元圦」から、天竜川左岸の用水路の歴史にたどりくつことができて満足し、豊岡駅から天浜線に乗って掛川から新幹線で帰宅しました。
充実の3日間の散歩が終わりました。
*おまけ*
寺谷用水土地改良区が発行している「寺谷用水」のパンフレットが公開されていました。
現在は上流の船明ダムから取水してパイプラインを通って送水しているようです。どうりで地図上で水路をたどっただけではどこから取水しているのか全く分からなかったのですね。
パイプラインや各施設の話、あるいは「田んぼのスケージュール」など、歩いたあの地域の生活がわかりやすく書かれていました。
四半世紀前に比べても、こうした資料をすぐに読むことができるのですから、ほんとうにいい時代ですね。
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