散歩をする 491 備前渠沿いに利根川によって袂を分かち合った地域へ

散歩をするようになって、水辺にはさまざまな案内板があることを知りました。

それを読むだけで、まるでそこが歴史資料館であるかのようにその地域の歴史や地理が浮かび上がるように見えてきます。

 

これもまた博物館制定法以降1950年代から60年代ごろの各地に多彩な博物館ができた時代の熱意とか、あるいは地方分権と郷土を見直すという流れによるものでしょうか。

それともその後の公共事業は無駄という世の中の雰囲気への地道な警鐘だったのでしょうか。

 

備前渠用水路についての案内と石碑を後にして、ひとつ目の備前渠橋から土手の方を眺めました。

土手を貫通した通水路に利根川の水が引き込まれている場所が見えます。その様子を目におさめて、満足して歩き始めました。

 

地図では備前渠用水路の右岸側に歩道が描かれていますが、草に覆われた道でした。10月下旬とはいえ暑かったので、草むらを歩くには軽装すぎました。残念ですが、一本離れた農道のような道から備前渠用水路を眺めながら歩くことにしました。

 

どこまでも大きな空を遮るものがなく、整然と畑が続いています。

青々と大きな葉っぱが育ち始めているのはブロッコリーのようです。それが途切れると、今度は一面のネギでダイナミックな風景ですね。

途中、「農山漁村地域整備交付金(農業集落排水事業) 仁手・下仁手・久々宇クリーンセンター」という施設がありました。どんな設備で、大事な農地を守っているのでしょう。ほんとうに知らないことばかりです。

 

 

*水害を避けて移住*

 

帰宅してから「久々宇」はなんと読むのか検索したら歴史に出会いました。

久々宇村(くぐうむら)

利根川南岸の沖積低地の自然堤防上に位置し、東から南は仁手(にって)村および本庄宿。北は利根川を隔てて上仁手村。寛永年間(一六二四〜一六四四)以前は上野国に属していたが、烏川の変流によって武蔵国の所属となったとされる(上野国志)。永禄七年(一五六四)五月一七日の鎌原宮少輔に宛てた武田信玄書状写(鎌原系図)に、武田方によって「本庄、久々宇迄放火」と見える。

コトバンク、「日本歴史地名体系」)

 

コトバンクにはもう一つ群馬県の久々宇村について書かれていて、両毛線国定駅岩宿駅間にある笠懸町久宮(くぐう)の説明にこんなことが書かれていました。

村名は武蔵本庄(現埼玉県本庄市)の利根川沿いにあった久々宇村の村民が度重なる水害で移住してきたことによると伝えられる。

 

袂を分つのは、川の両岸に分断されるだけではないこんな歴史もあったのですね。

 

 

利根川右岸の群馬県の飛び地と養蚕*

 

途中で備前渠用水路を渡り、利根川の堤防とにはさまれた地域へと入りました。

途中で牛の匂いがしてきました。いつ頃からの牛舎でしょう。

堤防を左手にただただ畑を歩きましたが、鳥の囀りと時々草がかすれる風の音。ほんと満ち足りた散歩です。

 

少し先の集落が近づいてきて、埼玉県本庄市から群馬県伊勢崎市の「境島村」に入りました。

特に風景が変わるわけでもなく県境をはさんで家があるのですが、どんな地域の関係があるのでしょう。ちょっと不思議ですね。

 

堤防沿いにある島村蚕のふるさと公園に10時に到着しました。サイクリングの人たちが立ち寄れるように整備された公園のようです。

この近くに田島弥平旧宅や桑府館があるようですが、8時前に本庄駅近くのホテルを出てからずっと歩いたのでそこを訪ねるのはあきらめて、利根川の水面を眺めて過ごすことにしました。

 

島村の村内には利根川が流れており、その流路の変更によって、島村は時期ごとに二分あるいは三分されてきた歴史を持つ。弥平が生まれた文政5年は利根川大洪水のあった年で、彼はまさにその最中に生まれたと伝えられている。島村では19世紀初頭に蚕種製造業が始まっており、文政3年の大洪水を機に河原が開墾されて桑畑へとなり、さらに発達した。

Wikipedia「田島弥平」「生涯」

 

「烏川の変流によって武蔵国に」とか「その流路の変更によって、島村は時期ごとに二分あるいは三分されてきた歴史を持つ」とさらりと書かれていますが、理不尽で過酷な生活は想像もつきません。

 

 

*伊勢崎市のコミュニティバスで飛び地から利根川左岸へ*

 

この公園を10時35分に出る伊勢崎市のコミュニティバスに乗りました。

途中、埼玉県の中の群馬県境島村という飛び地の中のさらに埼玉県の飛び地という不思議な場所の横を通過しましたが、何が違うのかもわからない場所です。ここは「本庄市」なのか「深谷市」なのか見落としました。

 

地図ではこの県道は県境を越えても「県道258号線」と表示されています。

群馬県道としても指定されているが、実質埼玉県道というこれまた不思議な道でした。

 

バスはいったん深谷市に入って「上武大橋南バス停」を回ったあと、利根川を渡りました。

洪水で袂を分つような地域のコミュニティバスは県境もものともせず、案外と融通が利いているようです。

 

利根川左岸に入ってすぐの「上武大橋北バス停」で下車しました。「境平塚」「境米岡」という地名ですが、ほとんど堤防付近と変わらない高さのように見えます。

早川を渡るあたりから緩やかに上りになり、水田地帯から住宅地へと変わりました。

 

新田荘資料館があります。「新田荘」「しんでん」ではなく「にった」だろうと想像がついたのは、高校時代の勉強の成果ですね。

残念ながら臨時休館で、そのまままっすぐ落ち着いた街並みの世良田地域を歩くとその先にまた広い水田地帯が広がっていました。

周囲は「境」や「新田」がつく地名に囲まれているようです。

 

世良田の水田、水源はどこからだろう。利根川との歴史はどんな感じだろう。稲穂が一面に広がる風景を見てみたい。

また歩きたい場所を見つけてしまいました。困りましたね。

 

水田地帯の真ん中にある世良田駅から東武伊勢崎線に乗って、2日間の充実の散歩が終わりました。

 

 

 

 

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