米のあれこれ 72 「繰り返し暴れる赤川との戦いを経て美田を開発」

地図で見つけた鶴ヶ岡城の西側に流れる青龍寺川ですが、実際に赤川頭首工を訪ねてこの地域では重要な河川であったことを知りました。

 

農林水産省東北農政局のホームページの「地域の歴史」に、「〜繰り返し暴れる赤川との戦いを経て美田を開発〜」という記事がありました。

 

名前の由来は、アイヌ語の「川」、あるいは赤く濁った川などの諸説あります。豊かな水源である反面、流路が大きく変わるほどの洪水をも引き起こす暴れ川でもありました。

 

そして庄内平野の開発の歴史は、すでに7世紀中期ごろから始まったことが書かれています。

和銅5年(712年)には出羽国が設置され、地方を治める体制も整い地域開発が進められましたが、定住人口が少ないため、「土地は地味が肥え田野は広いから、近国から国民を移住させ地の利を保つべきだ」との意見が朝廷内で出され、置賜、最上二郡及び尾張信濃、上野、越前、越後国から数次にわたり柵戸(きのへ)として千戸をこえる人々が移住してきました。庄内平野の開発は国家的事業として推進され、奈良時代初期にその基礎が確立しました。

内日本と呼ばれていた時代でしょうか。

奈良時代、私が教科書でイメージしていたよりは本当にダイナミックに人は奈良から全国へ、そして全国各地の間で移動していたようです。

 

 

青龍寺川堰ができた頃*

 

「中世〜水利事業と治水事業のはじまり」に、青龍寺川堰ができた頃のことがまとめられていました。

 

 古代律令国家が崩れ武士階級が台頭した頃、鎌倉幕府が任命した地頭と在郷の豪族は荘園の権益を出前激しく争い抗争を繰り返しました。しだいに幕府の力を後ろ盾にもつ地頭は地方大名へと成長していきました。さらに隣国の大名間での戦いも経て、慶長6年(1601年)には、最上義光が庄内三郡を治めるに至りました。

 ちょうどそのころ、庄内平野の南部に位置する赤川流域での農業用水利施設が造られ始めたとされています。いわゆる九堰の誕生です。九堰とは、赤川の上流から熊出堰(左岸)、三ヶ村堰(左岸)、青龍寺堰(左岸)、大川堰(右岸)、志田堰(右岸)、因幡堰(右岸)、五ヶ村堰(左岸)、中川堰(右岸)、大宝寺堰(左岸)の各堰です。

 左岸から取水する青龍寺川堰は、青龍寺川史に慶長14年頃に、本郷村の肝煎(村の長)工藤掃部によって開かれたとあり、右岸から取水する因幡堰は、慶長年間に最上義光家臣の藤島城主新関因幡守久正が工事を始めたことからその名が付いたとされています。また、中川堰は旧名を中川大堰天高堰と称し、中央に位置する大動脈たる幹線水路を称えるものとされています。年代は正確に記録されていませんが、その他の堰も戦国期から江戸中期までに開かれたと伝えられています。戦国時代に発達した築城や鉱山技術を取り入れて、大河川の堤防築堤や用水路の掘削が行われるようになりました

 

予想した通り、青龍寺川は小高い場所を通っていたのですが、「中川大堰天高堰」の名前のようにそれ以外の水路もやはり高い場所を通す水路だったことが想像できます。

 

あの羽村堰から武蔵野台地のハケの上へと水を通し、途中の田畑を潤し江戸城の上水となるまで、何本にも小高い尾根のような場所を水を通すような仕組みに当時の技術の高さに驚いたことが、こうして各地の堰や水路を訪ねるきっかけになりました。

 

その技術の進歩のきっかけが、あの残酷な水攻めの技術が数百年後に農業用水路や干拓に生かされたように戦うための技術から得られたのも皮肉ですが、長い長い目で見ると失敗から学んでいるのかもしれませんね。

 

 

*近代とは*

 

 先人が苦心して造った各堰間には分水に関する協定が定められ、夏の渇水期となれば協定に従った配分が厳守されました。各堰間には取水の優劣を示す分水慣行がありましたが、明治期以降徐々に改められてきました。赤川地域の水利秩序が、地域の人々の英知により確立し、その礎が現在に至っていると言えます

(以上、強調は引用者による)

 

 一方洪水ですが、春先の融雪期と夏の豪雨によって発生しました。赤川の河道が現位置に安定したのは、慶長7年(1602年)最上義光が熊出江口を締切り、本流を熊出より北流させた工事以降のこととされていますが、本格的な洪水対策は近代になってから行われました。

 

利水の技術だけでなく、「河道を安定させる」「河道を付け替える」という17世紀ごろからの洪水対策の歴史があちこちの川に残されています。

赤川周辺でもその風水害から守るために、住民が作業にかり出されていた辛さが歌として残っているそうです。

いやだちゃ 行きたくないちゃ 黒森の普請、川普請、度々困る

 

また技術が進んでも、水を得るためにまた各地に水争いの悲惨な歴史が残されています。

 

現代の日本ではさすがに水争いとか水を盗むといったニュースを耳にすることなく、「禾黍油油」の平和な風景を見ることができるのですが、明治以降の「人々の英知」とはおそらく「人類の為」という概念を得たあたりではないかと思いながら赤川の歴史を読みました。

 

 

以前は全国津々浦々の美田の風景と軍事技術などとは繋がらなかったのですが、散歩をするようになって現代社会で耳にする「平和利用」という言葉にはこういう歴史があったのかと少し見えてきました。

 

 

 

 

*おまけ*

 

旧約の時代からの争いがぶり返す現世の空しさを見ていると、戦争という国家の病気に対しては、正義感と理想論だけではどうしようもないですね。

 

せめて、紀元前からの長い歴史の記憶が残る土地を壊すために使われてしまった技術が、何世紀後かには平和なことに使われ、争いという失敗から何かまた普遍的なことを得ることを祈るしかないのかもしれませんね。

 

 

 

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