散歩をする 560 とさでんで土佐の歴史をちょっとだけ歩く

さあ、いよいよ路面電車の散歩です。

 

地図をみると山側をJR線が走り、路面電車のとさでんが南北十字に通っています。

都市化が進んで路面電車があとでできたのだろうと確認すると、違っていました。

1924年(大正13)に高知・須崎間が高知線として開業し、その後延伸して1935年(昭和10)年に多度津まで通って土讃線になったのに対して、とさでんは1909年(明治42年)に開業し、1925年(大正14年)には御免町まで開通していました。

 

私が子どもの頃の路面電車のような車体かなとワクワクしていたら、最新式の外国の「トラム」風の方が到着しました。でも乗り降りしやすい低床で快適でした。

かつては2035年には合計969万人と約80%まで落ち込むとの見通しがあったようですが、けっこう乗り降りが多く公共の足になっているような印象でした。

15時22分に乗車。高知の日没は17時27分と都内よりはだいぶ遅いのですが、先を急がなければ。あと2時間ぐらいでどれだけ回れるでしょうか。

 

ロングシートでないので、車窓を眺められるのもいいですね。ずっと右手の干拓地へと続く風景を眺めていました。領石通り手前で大きな水門が見えました。排水機場でしょうか。

新木(しんぎ)停留所のあたりでは「海抜0.8m」と低く、近くに舟入川が流れているのでかつては木場のような場所だったのでしょうか。

そこからぐんとのぼって橋で国分川を渡り、高知市の市街地へと入りました。かつては浦戸の海だったのでしょうか、低く平な場所をまっすぐに進むとはりまや橋停留所に到着しました。

 

 

*終点の桟橋通5丁目へ*

 

はりまや橋で桟橋線に乗り換えました。

土佐電気鉄道の中では一番古く、1904年(明治37)に開通したようです。その名の通り港のすぐそばが終点です。

海や港を見たいと、終点まで乗ってみました。どこまでも平地を進みますが、南側にも北側にも山がすぐ近くに迫っています。南側の山の反対側にも浦戸湾が長細く伸びていて土佐湾へとつながっているので、高知市干拓地というのは今まで訪ねた中でも海岸線よりかなり奥まった場所にある干拓地です。

 

途中、車窓から自由民権記念館が見えました。高校時代の「自由民権運動」の記憶をたぐり寄せてみましたが、板垣退助ぐらいしか思い出せません。ちょっととほほですね。

 

終点の桟橋通五丁目のすぐそばには港湾施設が立ち並んでいました。どこからか港が見えないかとぐるりと歩いてみましたが、建物に阻まれて見えませんでした。港は立入禁止区域が多いですから仕方ないですね。

 

自由民権記念館を訪ねようと二駅ほど歩いてみたら、閉館時間間際になってしまいました。

大きな石碑に「自由は土佐の山間より」と刻まれています。

やり残した宿題ができました。

 

 

 

はりまや橋周辺を歩いてみた*

 

 

ここからまた路面電車に乗ってはりまや橋で降り、南側の裏道のような通りを歩いてみました。

高知城下町名今昔」という案内板があります。

八百屋町(やおやちょう)

 江戸時代初期、魚商いをする魚棚(うおのたな)があったが、万治二年(一六五九)、南の弘岡町へ移転させられ、跡地に野菜や乾物などを商う八百屋が立ち並んだことに由来する町名。城下の富商といわれた田村屋(川崎家)ものちにここに住み、別邸(燕雀楼)は、慶応三年(一八六七)、島津藩主の命を受けて。山内容堂と会談のため土佐を訪れた西郷隆盛の宿舎となった。

かつては海がもっと近かったのでしょうか。

 

少し歩くと、道の真ん中にかつては小川だったのだろうと思われる暗渠の緑地がありました。

たどると中央公園から南へと流れているようです。同じ中央公園から東へと流れるのが有名なはりまや橋の付近の川になるのですから、現代の地図だけではよくわからない水の流れです。

水源はどこなのでしょう、どんな使われ方をしていたのでしょう。

 

さらに歩くと、鶏の彫刻のついた長細い案内標が建っていて「板垣退助誕生地」「片岡兼吉誕生地」と表示されていました。

また暗渠のような遊歩道があり、近くに「片岡健吉先生誕生の地」と石碑がありました。

片岡健吉(1843ー1903)

自由民権家。土佐藩士として戊辰戦争に参加後、イギリスに留学。帰国後立志社社長をつとめ、終始自由民権運動の先頭に立った。第一回衆議院選挙以降当選を重ね、衆議院議長在任中に病死。また基督教徒であり、同志社社長をつとめた。

立志社」、なんとなく習った記憶があるような。

 

また鶏の案内標が立っていて「後藤秀二郎誕生地」とあります。その近くに「板垣退助が生まれた天神橋商店街」と旗が掲げられていました。

せっかくだから板垣退助の石碑も見てみたいと歩いてみましたが、道を失いました。

 

今日もよく歩きました。

こんな時はガツンと野菜の多い中華料理を食べたいと思って近くのお店に入ったら、私よりひと世代ぐらい上でしょうか、中国語で会話されているご夫婦が切り盛りしていました。

どんな人生を歩んでこられ、どんなご縁で土佐で中華料理を振る舞っていらっしゃるのでしょう。

美味しい中華丼と餃子に大満足していると、テレビが速報になり通天閣で火災が起きていることを伝え始めました。

ほんとうに人生は何が起こるかわからないですね。

 

駅前のホテルに戻ろうと、東西に走るとさでん伊野線に乗ろうとしたら帰宅時間で大混雑でした。路面電車ラッシュアワーを初めてみました。

はりまや橋まで歩き桟橋線で戻り、充実した2日目が終わりました。

 

小学生の頃に歩いたこのはりまや橋付近がどんな感じだったのか記憶が残っていなかったのですが、まるで街全体が歴史民俗博物館のようでした。

そして、なぜ父は桂浜を訪ねたいと思ったのでしょう。雄大土佐湾を眺めたいだけではない、何か思うところがあったのでしょうか。

 

 

 

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