昨日のマクロビのお産に対する思想の記事にいただいたyamyamutohさんとrenyankoさんのコメントから、もう少しその思想背景について思うところを書いてみようと思います。
<富国強兵政策と母子保健>
・お産が苦しいなどというのは、食養を破った罪人だけです。
・難産の子供は、人生の第一歩から不幸で、おまけに一生不幸です。
大きくて白い、白ン坊はできそこないで、青ン坊はペケ作品です。あなた方の「幸福の鳥」は赤い鳥です。大きい「白ン坊」「青ン坊」は不幸をまきちらす凶兆です。正食をしないと、そんな子供しかできません。
現代の私たちが読むと、差別意識がむき出しの表現に気分が悪くなりそうです。
ただ、桜澤如一氏は1893(明治26)年生まれですから、その考え方の背景には日清戦争以降、第二次世界大戦終戦まで、国民が嫌でも巻き込まれた富国強兵政策によって培われたものがあるのではないかと思います。
こちらの記事で信州の近代産婆に関する文献を紹介しました。
その中に、桜澤如一氏が生まれ育った頃の日本の母子保健について書かれた部分を引用します。
(第3章 長野県における近代産婆の確立より)
(全国の)乳児死亡率は出生率に同調して、日露戦争後から第一次世界大戦後まで増加し、1920年には出生1000に対し165.7となった。「コロコロと死亡する赤ちゃん」といわれる所以である。
日清戦争後、日露戦争を経てつくられた我が国の近代的衛生行政の基盤は、大正、昭和の時代に入り、新たな分野を開拓しつつ、戦時体制の進行とともに関連して変化していく。
この中のひとつに、国民体位向上への関心が高まるのに伴って、国民の保健指導をはじめとする、より積極的衛生分野が開拓されていったことが挙げられる。
この中心となったのが結核予防対策と乳幼児死亡低下をめざす母子衛生対策であった。
第一次世界大戦後、母子保健状況の深刻さが社会問題として認識され、ますますクローズアップされて、公衆衛生面からの母子保健事業の発達がみられるようになった。(第3章 第2節)
第一次世界大戦の終戦が1918(大正7)年ですから、桜澤氏はこの「国民体位向上への関心」の高まりの中に生きていたのではないでしょうか。
そのわずか20〜30年前までは、おそらく「母子保護」とか「公衆衛生」という概念もまだまだ社会には浸透していなかったでしょう。
トリアゲババや身内の無資格者の分娩介助によって、出産が終わるまで生きて生まれてくるかどうかもわからないお産がほとんどでした。
生まれても「無事に育ちそうに無い」と判断されれば、間引きもおこなわれていた時代です。
たとえその母子保護の背景に強い兵を産み育てる政策があるとしても、妊娠中や生まれた子どもの食物に気をつけて健康にするための考え方がでてきたというのは、当時にすれば先駆的ともいえるのかもしれません。
ですからそういう意味で読めば、以下の部分もそれまでは間引かれていた弱い子供もきちんと栄養に気をつけて育てること、という意味にもとれます。
そんなペケ品がやできそこないが生まれたら、ソレコソ苦労します。できてしまったら、しかたがありませんから、一日も早く「赤ン坊」に改造することです。それには母が、正食をすればよいのです。事は簡単です。
弱く生まれた子どもを守るという新しい考えだった可能性もあります・・・当時にすれば。
児童の権利、それは当然だと思える私たちですが、その考え方ができて一世紀も満たないことなのですね。
「児童の権利」の中には、1924年に児童の権利に関するジュネーブ宣言とあります。その背景には、世界中で広がった戦火の時代があることでしょう。
子どもたちが育つにはあまりに悲惨な社会状況だったと思います。
(児童の権利、第2条)
1.締結国は、その管轄の下にある児童に対し、児童またはその父母若しくは法定保護者の人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見、その他の意見、国民的、種族的若しくは社会的出身、財産、心身障害、出生又はその他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する。
第二次大戦後の昭和20年代でも、心身障害をもった子どもは人目を避けて座敷牢のような部屋で育てられていた話も読んだ記憶があります。
およそ半世紀前の日本の社会でも、まだそのような時代でした。
児童福祉法が定められたのが1947(昭和22)年、そして「母子保健」が法律で明確にされたのは1965(昭和40)年のことです。
<「食養人生読本」1973年出版>
さて、桜澤如一氏の引用部分が掲載されている「食養人生読本」は1973年に出版されたもののようです。
そして桜澤氏は1966年に亡くなっているようですから、没後7年の年に出版されたことになります。
すでに、日本の社会に児童の権利、児童福祉法、そして母子保健法が根付き始めた時代です。
なぜあの部分をあえて入れて出版したのでしょうか。
創始者の言葉は一句一字変えずに守られていくということだったのでしょうか。
そして私たち助産師はその業務に必須の法律として、この児童福祉法と母子保健法があります。
たとえ、「昔は先駆的な考え方」であったとしても、現在の母子に対する考え方として差別的であったり児童の健康を害する考え方には毅然とした態度を示す必要があると思います。
なぜ、助産師の一部にマクロビオティックが広がってしまったのでしょうか?