自律授乳のあれこれ 5 <「赤ちゃん主導」と「自律」の矛盾>

「欲しがるときに欲しいだけ」というのが「自律授乳」であったり、あるいは「赤ちゃん主導の授乳」とされるのであれば、「赤ちゃんが欲しい(飲みたい)わけでなない」状況があることを認めることも「自律」や「主導」ではないかと思います。


ところが、すべて「授乳」という狭い視点でしか新生児や乳児をみようとしないので、どうも「赤ちゃんの世話」=「授乳方法」にされてしまうのではないかと思います。


ですから、「泣くのは母乳を飲みたがっている遅いサイン」のように、「授乳」だけしか目に入らないような教え方が作られてしまうのでしょう。


たしかに、起きた直後には昨日の記事で紹介した「空腹のサイン」のタイミングでは口を頑として開けなかったり手で払いのけていたような新生児も、生後2〜3日を過ぎると起きたタイミングですぐに吸い付くことが多くなります。
そのあたりの変化は、こちらの記事に書きました。


そうした新生児の変化が目に入らずに、「泣き出す前に赤ちゃんに授乳できるようになった」「泣いてからでは遅いサインがわかるようになった」と思い込んでしまうと、新生児の日々の変化も、その変化をもたらしているもっと複雑な新生児の自律性も見えなくなるのではないでしょうか。



<「自律」と「主導」>


以前、おむつなし育児の話題をどう考えるかという記事で「排泄の自律」について書きました。


その中で、「自律」とは「他からの支配、制約などを受けずに自分自身で立てた行動」という一文を引用しました。
また、「体の自律」とは「すべての体の部分が巧妙な自律性によって動かされ生きている」のではないかと書きました。


私たちは、毎日、自分の心臓の動きもお腹の動きもすべて意志とは別の複雑な自律性によって生きています。


当然、新生児も同じです。


それに対して、「主導」というのはどちらかというと「自立」に近い表現で、自立できるから自分の意思で自分の行動を主導できるのではないでしょうか。


だとすると、新生児や乳児が「授乳を主導する」という表現はなじまないように思います。



こちらの記事で、「哺乳行動とは授乳・消化・吸収・排泄の統合的な行動である」のではないかと書きました。


そして、ぐずぐずしたり眠らなかったり、あるいは泣くのに飲まなかったりも、まさにこうした体内の自律した変化によるものなのではないかと。


「欲しがるときに欲しいだけ」という言葉は、あの新生児や乳児にとっては不自然だった「規則授乳」の時代の壁を破るのにとても有効だったことでしょう。


次の段階としては、「欲しがらないときは何をしているのか」という視点をもった新生児や乳児の自律性が明らかにされていくとよいと思います。


すべてがおっぱいや授乳に答えがあるのではない。
明らかな病気などでなければ、「欲しがらないとき」は赤ちゃんに任せて待ってみる。
それが新生児や乳児の「自律性」に合わせた、乳児自らの行動を大事にする「主導」ではないかと思うのです。


そう、「自律『授乳』」という狭義ではなく、もっと広い視点で新生児の世界が表現されるような時代になるとよいですね。