行間を読む 25 <「もともと消防署には『赤い車』しかなかった」>

タイトルは、先日たまたまm3comという医療関係のサイトのバックナンバーを読んでいた時に見つけた一文です。


「医療維新」の2009年3月24日に、都立墨東病院救命救急センター部長濱邉祐一氏のインタビュー記事、「『スーパー周産期』でモラルハザード誘発の懸念」です。


「2009年」、「スーパー周産期」と聞いただけで私のように周産期の末端で働いている助産師でも、2004年来の産科救急に対する社会の批判とそれに戦々恐々としていた日々が胃の痛みとともに蘇ってきそうです。


それはさておき、墨東病院の救急センターは1985年に開始されたそうです。当時は年間500から600件ほどであった搬送数が現在は2100から2200件に増加し、患者の平均年齢は当初40〜50代であったのが60〜70代へと高齢化し、搬送理由も開設時は外傷が半数だったものが、患者の高齢化に伴って疾病によるものが3分の2を占めるなど、大きく変化していることが書かれています。


インタビュー記事では、この変化には「法的に救急搬送が消防の任務であることが明記された」ことが大きいということで、以下の話が続いています。

もともと消防署には「赤い車」しかなかった。しかし、火災などの現場に行くと、けが人がいる。それをサービスで病院に搬送していたわけです。ところが、1986年に消防法が改正され、救急業務の対象や応急手当の根拠の明確化がなされ、消防の業務として救急搬送が位置づけられたわけです。

1986(昭和61)年、ちょうど私は東南アジアで働いていた時期でしたので、日本の救急隊についての記憶がすっぽりと抜けていたことに、はっとしました。


産科崩壊といわれた2004年頃に、周産期医療やそれを支えてくれた救急隊の存在に改めて気づいた時には、インタビュー記事のような状況になっていました。

その後、救急搬送に時間がかかった事例では、それが原因で患者が死亡したとされ、救急隊の責任が問われ、敗訴した裁判などがありました。救急隊としては、できるだけ早く、かつ確実な病院に搬送したいと考えるようになったのは当然でしょう。

そうなんだ。
「サービスで病院に搬送していた」時期から、業務となった時期があったのだ。
そしてわずか20年ほどで、搬送の遅れなどで批判される時代になってしまったのですね。


ということで「消防署には『赤い車』しかなかった時代から、今当たり前のように救急車が待機している時代への変化はどうだったのだろうと確認してみることにしました。
wikipediaですけれど。


<日本の救急隊はいつごろから?>


「日本の救急隊」では以下のように説明があります。

日本の消防救急隊は1950年代から一部地域で編成され始め、1964年に横浜市消防局が消防特別救急隊(横浜レンジャー)、1969年に東京消防庁が特別救急隊(レスキュー隊)を設置したのに合わせて全国の消防が設置を始めた。

1986年になると消防法の改正により全国の消防に人命救助を専門とした特別救助隊と救急隊の設置が義務づけられた。

この1986年までにももうひとつ1963年に消防法の改正があったことが、「日本の救急車」の「歴史」に書かれています。

1963(昭和38)年 消防法が改正、各自治体消防が救急業務を行うよう義務化され、全国に普及が進んだ。
1970(昭和45)年 消防自動車と同じサイレン音だた「ウー」音との識別や搬送中の傷病者並びに道路沿いの地域住民が受ける騒音軽減のため、救急自動車専用「ピーポー」音電子サイレンへ変更される。

あ、この「ウー」だった音から「ピーポー」になったことは、子どもの頃になんとなく記憶があります。


こうして「ピーポー」は、救急時の安心を提供する行政サービスとして形作られてきたのですね。


1986年の法改正以降、救急隊は「当然」のサービスとしてさまざまなことを要求される立場になってしまったのかもしれません。


<周産期と救急隊>


周産期搬送と救急隊は切っても切れない関係にあることは、「母体・新生児搬送」の記事でも書きました。


その記事でも書いたように通常は産科医が搬送先を確保してから救急隊を依頼するので、周産期に限っては救急隊員が搬送先を探さなければならない事態はとても少ないと思います。


ただし、妊婦健診を受けていない未受診の女性からの出血や腹痛で119番通報もあるので、救急隊員の方々は本当に大変だろうと思います。


妊娠判定薬エコーでの予定日診断が確実に行われるようになった90年代終わりごろまでは、総合病院でもしばしば飛び込みの産科救急がありました。


今思えば、無事に救急車が飛び込みの患者さんを運んでくださって一命を取り留められたのも、1986年の法改正によって救急隊配置が義務づけられたことの恩恵だったのだと、改めて思います。


<「家庭分娩」と救急隊>


その1986年の法改正の直後ぐらいに、私は助産婦学校に入学しました。


当時は「助産婦を見直せ」「開業を見直せ」という雰囲気が教育の場にも高まっていた時期でしたし、自宅でしか産む選択がなかった時代を「家庭分娩」という言葉で学生に教え始めていた時代でした。


その頃、「自宅分娩」を復活させようとする若い世代の助産師は先駆者のような存在として見なされていたのかもしれません。
ある日、自宅分娩をしている40代の助産師が講師として教えに来ました。
その講義で、なんとなく「怖いな」と印象に残っているのが次のような話でした。

助産師仲間の出産を自宅ですることになった。私と仲間の助産師たちが介助に入ったところ、介助をしていた一人が破水した。早産なので救急車を呼んだ。

つまり産む人ではなく、分娩介助に入った妊娠中の助産師が破水し、早産で救急搬送されたという話です。


こういう話を聞いても、「家庭分娩」はなんだかよさそうという気持ちをもってしまうくらい、私も時代に影響されていました。
ただ、あの時に学生に伝えるのは自宅分娩の良さではなく、救急隊の歴史と「家庭分娩」の頃は搬送はどうしていたのかという事実ではなかったのかと今は思います。


そう、消防署に「赤い車」しかなかった時代はそう遠くない昔なのですから。





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