記憶についてのあれこれ 98 <富里>

スイカの番組は、千葉県富里のスイカ農家の方々が出演されていました。


録画してとっておいたものを観たすぐあとに、偶然にももう一度「富里」の地名がニュースになりました。
「スイカ食べながら走る催しで熱中症か 7人搬送1人重体」というタイトルを見ると、「給水の代わりにスイカだけ食べていた」イメージですし、ネット上でも「ナトリウムが含まれなくてカリウムが多いスイカを食べて走るのは危険」という意見もあって、それもそうだなと一瞬思いました。


でもよく読むと、「コースでは、特産のスイカを食べるコーナーが1カ所と、給水所が10カ所用意されていた」とあるので、ずっとスイカだけで水分を補給したわけではなさそうです。
熱中症とスイカに因果関係はないのかもしれませんね。
スポーツ医学はよくわからないのですが。


相葉マナブ」に出演されていたスイカ農家の方々が落胆されているのではないかと、なんだか気になりました。



<富里に行ったことがあることを思い出した>



「富里」という地名を聞くと、私たち世代以上だとおそらく成田空港反対運動を思い浮かべる人も多いのではないかと思います。
1978年に成田空港が開港するまでの反対運動については、当時中学・高校生だったのでその激しさだけが印象に残っていました。


開港して2〜3年ほどの時期に、成田空港を利用したことがあります。
Wikipediaの説明を読むと、1978年にはスカイライナーへの放火もあったのですね。
上野を出てしばらくするとあたり一帯は田園風景になり、そして一転して物々しい警備体制の中で空港に入った記憶があります。
人生の中で初めてあんなに大勢の機動隊員を実際に見たという感じで、楽しい空の旅への一歩と言うよりは、なんだか刑務所の敷地へ入って行くような緊張感でした。


そしてこの土地を開墾されて農業を生業とされている方々の大事な土地を奪った、そんな心苦しさがありました。


開港してからも、成田闘争についてのニュースが続いたことが記憶にあります。
Wikipediaの「開港後」にはこう書かれています。

1978年(昭和53年)5月20日に開港したものの、それ以降も反対派によるテロ・ゲリラ事件などが多発し、特に1985年(昭和60年)10月20日には、千葉県成田市三里塚交差点で、極左グループと警視庁機動隊が衝突した事件が発生したり(「10.20成田現地闘争」)、千葉県収用委員会の会長が、千葉市で襲撃された事件(千葉県収用委員会会長襲撃事件)が発生した。

ちょうど私はインドシナ難民キャンプやソマリアへ行き来していた時期もまだ、日本への出入国にもちょっとした緊張感が続いていたのでした。



1990年代に入って、三里塚や富里を訪ねたことがありました。
村井吉敬さんとその仲間が、八ッ場ダム治水などの大型公共事業の現場を訪れるのに同行させてもらったのでした。


「開港後」の続きに書かれている、円卓会議の後でした。

これらの事件により、正常な運営、あるいは二期工事の着工さえおぼつかない状況に陥ったが、1991年(平成3年)11月から隅谷三喜男東京大学名誉教授のほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主催の下成田空港問題シンポジウムが15回にわたって開催され、引き続き1993年(平成5)年9月から12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」で今後の成田空港の整備を民主的手続きて進めていくことが確認された。

私自身は成田空港反対運動については不勉強でしたが、日本のODA(政府開発援助)が、直接的・間接的に現地の人たちの土地の強制収用に関係していることに重ね合いながら、村井さんたちの会話を聞いていました。


細かな記憶がなくなってしまったのですが、成田反対運動でしばしば耳にしたいくつかの地域の農家の方々の家を訪ねました。
その中で、富里にも行ったのだと思います。


相変わらず、村井さんは当事者の話に静かに耳を傾ける方でしたから、目の前に人たちが激しい反対運動を続けて来た人とは思えないほど和やかな時間でした。


そして収穫したばかりのジャガイモを煮付けたものと、鰹のたたきを一緒においしくいただいた記憶があるので、あれは5月に入ったばかりの頃だったのでしょう。



富里スイカロードレース」は最近のマラソンブームで始まったのかと思ったら、今年で33回目のようです。
1983年、成田空港が開講して5年目に始まったことになります。
当時はどんな思いでこのイベントを始めようとされたのでしょうか。




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