落ち着いた街 79 富士川に流された民の記録が残る街

右岸側の水年貢の湧水から再び富士川を渡って水神社の前に戻ってきたら、渡船場の説明があることに気がつきました。

 

水神の森戸富士川船場

 江戸時代、東海道を行き交う人々は、富士川を渡るために、東西の両岸を結ぶ渡船を利用していました。

船場は上・中・下の三ヶ所が定められ、その時々で流れが穏やかな所が選ばれました。東側の渡船場であった松岡村の水神の森周辺は、渡船がおこなわれなくなった現在でも「船場」と呼ばれ、当時の名残を感じることができます。

 この水神の森には、日本三大急流の一つである富士川の水害を防ぐために、失敗を繰り返しながら建設されていた堤防工事の完成を願って、江戸時代の初期に建立された水神社が鎮座しています。

 その背景には、この場所が、約一万五〇〇〇年前に富士山から流れた溶岩流(水神溶岩流)が露出している場所であり、地盤が強固で、水没したり流されたりしない場所に位置していたことが指摘できます。

 また、水神社の鳥居そばには、「富士山道」と刻まれた石碑が移設されています。この石碑は、宝暦八年(一七五八)に、東海道から分かれて富士山へと向かう登山者のために、水神社から少し東の場所に建てられていたものです。登山者にとっては、重要な目標となっていたようです。江戸時代に発行された登山案内図にもその姿を確認することができます。

   令和三年三月    富士市教育委員会

 

吉野川、筑後川、利根川の三大暴れ川だけでなく、最上川球磨川とを三大急流と呼ぶそうです。

恐る恐るだったけれど橋を渡れば歩いて数分もかからないし、「その時々で流れが穏やかな場所」を選ばなくても三大急流を渡ることができるのが現代ですね。

 

近くの電柱に「歩く健康づくり一万歩 治水の歴史コース」の案内があり、雁堤にある御所神社が示されていましたが、私は南へと曲がり堤防近くの水路沿いに加島平野を歩きます。

 

 

*帰郷堤と「流れ」部落*

 

水神社の裏手から取水された水路が開渠になるあたり、堤防の内側へはけっこうな下り坂で、想像以上に複雑な地形でした。そしてここにも小さな製紙工場があるのが富士市ですね。

いつ頃からの住宅地でしょうか、コブシの花が咲き小さな畑も残り、のんびりと歩いていると真っ赤な鳥居がいくつもある小さな神社がありました。

大きな樹木に沿って、なんとも美しい参道です。

 

三重稲荷利大明神の由来記

此の地、元和元年(西暦一六一五年)からあ延宝九年[天和元年](西暦一六八一年)

徳川二代将軍秀忠公時代に築かれた一角であり、富士川増水で決壊帰郷堤(キギョウツツミ)と名付けられております。流された「流れ」部落民も戻り この人々が神の御加護を受けようと祀り始めたのが当初です。恰も明治初期 部落の氏子の御子息が病弱で困っていたとき 願をかけ御祈りをいたしました処全快し 尚且つ財政も豊かになり、それを見届けた隣接の「流れ」部落の皆様が合同で祀り始め 自然に盛り上がり今日では四丁河原下区、南区、西区、上区、一二〇〇戸からの祀りとして、御利益、霊験、家内繁盛、夜泣き等功徳有りとして、広く祀られる様になっております。

 

「帰郷堤」「流された『流れ』部落民

かつては上流から集落ごと流され、いったんここに避難したのちにまたかつての場所に戻ったということでしょうか。

 

ググると「富士川とその周辺地域には、流れ部落と呼ばれる場所がいくつか存在します。特に、平家の落人部落と知られる地域が有名です。富士川の河口付近では、水難事故の犠牲者が流れ着くことが少ななくなかったという伝承があります」(AI)とありましたが、それ以上詳細はわかりませんでした。

 

写真を見返すと、ここもまた参道がきれいに掃き清められていました。

風の日も、雨の日も誰かが守ってくださり、そしてそれに対して感謝も忘れない、それがこの国なのだと思いますね。

 

 

*加島平野の森島から宮島へ*

 

三重稲荷利神社からまた水路沿いに300mほど歩くと、堤防に出て東海道本線の踏切がありました。

水神社の前の富士川橋からは、下流の鉄橋がきれいに重なって見ます。東海道本線の鉄橋の向こうに見えた白い鉄橋が東海道新幹線だと思っていたら、近づいてみるとなんと大きな水道橋です。河川敷にはお茶畑があり、緑に白が映えています。

新幹線の車窓では記憶に残っていないのですが、ずいぶんと頑丈な水道橋が富士川の両岸を繋いでいたのでした。

 

ここから堤防の内側へ降りて、水路と田んぼ沿いに新幹線の南側に出て新富士駅近くまで歩く予定です。

傘が必要なくらいに降り始めましたが、バスはないので歩き切るしかありません。

 

水道橋の少し先に分水路があり、何本にも分かれて森島地区を潤している様です。

コンクリート製の分水路ですが、その間のわずかの土地に河津桜が植えられ小さな花壇がありました。田畑や水路のそばに花が大事に育てられているのが、この国の田園風景ですね。

薄桃色の河津桜の幻想的な姿の向こうに、代かきの終わった田んぼが増えてきました。

 

水路の一本に沿って森島地区に入りました。微高地だろうと見当をつけていたのですが、ずっと平らに見えます。

その間を分水路からの水路が網の目のように、しかもまだ代かきの季節なのに犬が流されそうな勢いで流れています。

どうやって河口付近の平地に傾斜をつけて公平に水を行き渡らすのでしょう。足りなくても溢れても困る用水です。

すごいことですね。

 

とうとう本降りになってしまいました。

体も冷えたので、お昼時の一番混んでいそうな時ですが中華料理屋さんに飛び込みました。

ご夫婦でしょうか、注文を受けると中国語で伝える声が聞こえてきました。どんな人生で、この地で美味しいご飯を作ることになったのでしょう。

雨でも客足は途切れず、豪快に料理を作っていました。

 

満足してお店を出ると、土砂降りです。

でも、歩くしかないですからね。ここから南東に向けて水路沿いを歩きました。田んぼがたくさん残る住宅地の間に道が入り組んでいるので、かつてからの集落でしょうか。

しだいに新しい住宅が増え、まっすぐな道になった向こうに東海道新幹線が通過していくのを見たら元気がでてきました。

 

午前中に少しだけ歩いた富士早川を渡り、新幹線の南側の宮島地区へ入りました。

高架橋沿いなので、新幹線の姿は見えず走行音だけです。

あっという間に通過してしまっていましたが、高架橋には「西富島」「分水」「助六」といった標識とともに南北を貫く小さな水路がたくさんありました。

三島駅の近くと同じですね。

 

日本全国、新幹線の線路の下を通る用水路の数はどれくらいあるのでしょう。

やはり田んぼと共に土木技術が発展した瑞穂の国ですね。

そんなことを考えながら歩いていたら無事にホテルに到着しました。午後3時すぎ、早めにチェックインしました。

これから新幹線と工場の夜景を眺め放題です。

 

集落を流してしまうほどの急流、河道も定まらない流れだった富士川の河口近くには落ち着いた街が広がっていました。

 

 

 

 

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