入道樋門公園と新浜の落ち着いた街並みを歩いたあとは、富士駅から水路に沿って潤井川まで歩きます。
富士市内の田んぼというと新幹線の車窓から見える沼津との間の浮島ヶ原ですが、地図を眺めていると富士市の中心部も今もなおたくさんの水路が張り巡らされています。
きっと田んぼの痕跡があるに違いありません。
3月に計画を立てた段階では、龍厳淵からの水路がいくつも複雑に分水されているように見えてどこを歩いたらよいのか悩みましたが、分水堰らしい場所のそばにある中島天満宮ともうひとつ潤井川に近い水路とそのそばにある米之宮浅間神社をつないで歩くことにしました。
6月に入ってマップに用水路名が表示されて選んだ分水堰の上流が「中堀」であることがわかり、米之宮浅間神社の水路は下堀であることがわかり、期せずして上堀・中堀・下堀を歩くことができたようです。
*富士駅から中島神社へ*
JR富士駅の北西150mほどのところを目指して歩き始めました。商店街を抜けると駅前もかつては水田地帯だったのではないかと感じられる場所で、水路が暗渠になる場所に石碑がありました。
水路や田んぼの歴史かと近づくと、昭和5年にこの場所で盗賊を逮捕した巡査部長が殉職された碑でした。1930年ごろ、この辺りはどんな場所だったのでしょう。
幅数メートルはあるでしょうか、ゆったりと水が流れている水路沿いにその上流を目指しながら住宅地を歩きます。
水路のそばに大きな木に囲まれた古い小さなお社がありました。後ろに箒が立てかけてあり、周囲は掃き清められていました。
真正面に雪を抱いた富士山が見えます。
ところどころかつての田んぼへの分水門が残っています。水路に沿ってゆるやかに上り、海抜16mの標識がありました。
水路は北西へと大きく曲がり、2本の水路が並行しているその先に鎮守の森が見えました。
天満宮なので学問の神様のようです。
境内に大きな石碑があるので近づいてみたところ漢文で記されていて、高校時代の知識を総動員です。
「加島」とあるのでこの辺りも「加島平野」だったのでしょうか。「富士川」「堤防」「氾濫横溢」「雁金隄」「水害大減流離之民得復帰」「良田四段五畝」から、その内容を察しました。
やはり富士川はいく筋もに広がって流れ、集落を流す急流だったのですね。それが雁堤(かりがねつつみ)によって守られることになった。
「貴族院議員」とあるので、明治に建立されたのでしょうか。
中島天満宮の先に遊水地のような場所があります。
近づいてみるとコンクリート製の深い遊水地で、その真ん中を中島天満宮の前を流れていた水路が水路橋として横断していました。
さらにその先に富士早川(中堀)が三本に分かれる堰があるようです。
地図では灰色にしか描かれていない場所でしたが、水害を制し、そして水を過不足なくその先の田んぼへと分ける大事な場所だったようです。
*米之宮浅間神社へ*
中島天満宮の北側の道は新しい青葉通りという幹線道路で、東へと行くと2023年1月下旬に初めて富士市に宿泊して歩いた時の田んぼが残る中央公園の近くの地域です。
交通量の多い道をてくてくと歩いていると、途中、石畳の美しい遊歩道があり「富士緑道」とありました。道路を挟んで反対側にも続いているので、もしかすると暗渠かと思ったのですが、中央公園のことを書いた記事に「身延線旧線跡は富士緑道(散歩道)として整備されている」と記していたことをすっかり忘れていました。
その先に大きな鎮守の森が見え、美しい水が流れる水路がありました。これが下堀だったようです。
「米之宮」という名前に惹かれて訪ねたのですが、「米之宮浅間神社略記」にその由来が書かれていました。
古記録によれば、第四十代天武天皇の時代、今より一三二〇年前白鳳四年勅使御降臨(天皇の御使いが御来社)なされたとあり、当神社の創建はそれ以前と思われ、相当の古社で荘厳であったと想像される。
又、別の古文書には「富士山の御事は・(中略)・神代雲霧に囲まれ諸人これを拝することを得ず富士と唱へざるのみ 以に米穀山と申し奉り 人皇第六代孝安天皇の御字 庚申に当りて御出現まし 日の本の人是を拝す 茲に同国の南面加島の郷に鎮座し給ふは別て御徳たかく 米之宮仙間木花開耶姫命にてまします・・云々(原文)」とあり、さらには当社祭神が万民に米食の福田を与え恵給う神であり、それ故に当社を「米之宮」と称し崇め奉ったと記されている。
「万民に米食の福田を与え恵給う神」
そうでした、ずっとずっと瑞穂の国の民はお米を食べたいと思い願い続けてきたのでした。
ほんの半世紀ほど前までは、神様に祈るしかなかったのだと。
「米のあれこれ」まとめはこちら。
「お米を投機的に扱わないために」まとめはこちら。