事実とは何か 62 オランダのハンス少年の物語

八郎潟がオランダと関係が深いことを初めて知りましたが、オランダ、干拓地というと思い出すのがあのハンス少年の話です。

海抜が低く堤防に囲まれたオランダで、堤防から水漏れを発見したハンスがその土手の穴に手を突っ込んで水漏れを防いだという話です。

小学生の頃に読んで、オランダといえばチューリップや風車の美しい風景とともに、この話を必ず思い浮かべるほど印象深いものです。

 

詳しい話を忘れたので検索してみたところ、「for Civil Engineer」というブログがありました。

オランダに1年間研究で滞在されていた日本大学理工学部土木工学科(2008年当時)の方が書かれているようです。

その中に、「これが有名な・・・」という記事がありました。

これが有名なハンス少年の銅像です。探すこと15分、左写真の通り近所の方が日光浴のために止めてある自転車の奥に見つけました。スバールンダム というアムステルダムに近い小さな町でありました。近づいてみると写真中央の通り堤防の水漏れの箇所に指でふさぎ、誰か来ないかみているようであります。逆側から見るとハンス少年も木靴を履いていることがわかります。

いろいろ調べてみると、このハンス少年の銅像は別のところにもう一つあるようです。(これから調査をします)また、残念ながらこの「ハンス少年の物語」はどうもフィクションのようであります。

運河に囲まれたオランダならではの話題ですが、シビルエンジニアとして市民の生活を守るという共通点があるようにも強く感じます。みなさんはどの様な感想を持たれましたでしょうか?

 

ハンス少年の話をフィクションだと聞いてもノンフィクションのように感じるのは、そこに人の生き死にがかかっているリアリティを感じるからかもしれません。

あちこちの干拓地や川や、あるいは用水路を散歩していると、ハンス少年がいるような気がするのです。

 

八郎潟干拓地の計画ができた頃のオランダ*

 

そのブログに興味深い記事がふたつありました。

大堤防 

オランダでは常に水害の危機に直面しているため、この30キロメートルにも及ぶ大堤防(Afsluitdijk)が1927年から1933年にかけて建設されました。この大堤防によりゾイデル海が淡水化してアイセル湖となりました。さらにアイセル湖では5つの干拓事業が計画され4つの地区で1.7万haが農地として造成されましたが、残る一つは財政上の問題と干拓後の使用目的から凍結されております。そしてちょうどことしか締め切りが完成して75年目を迎え記念イベントなども行なわれていました。デルタプランで紹介した1953年の高潮ではその威力を見事に発揮したそうです。(以下、略)

 

 デルタプラン(1)

オランダは国土の半分以上が海面下にあるという特徴を有しております。1953年に北海から発達した低気圧により、高潮が発生し、オランダ南西部のおよそ20万ヘクタールの土地が浸水し、4500戸の建物が流され、10,000頭の家畜が被害に遭いました。その時の死者は1853名という大災害でありました。

その後、この教訓を生かし二度と同じ被害を起こさないようにと、1957年にデルタプランが実行されてきております。デルタプランは、高潮に対して川をふさいでしまうというものです。1997年に完成したマースラント洪水バリアの全体像(模型)は左の通りです。平時はバリアは開いた状態で川の両岸に収納されており、船が航行することができるようになっております。水位が上がると高さ22メートル・幅210メートルのバリアが両岸から出てきて360メートルの川幅をふさぎます。上流には世界最大級の貿易港であるロッテルダム港(ユーロポート)があります。

 

自国が未曾有の大水害に見舞われていた翌年の1954年にオランダからハンセン教授とフォルカー技師が来日し、戦後賠償としての事業を受け入れるためだったのですから、その心中はいかばかりだったことでしょうか。

 

八郎潟が着工された1957年に、オランダではデルタプランが始まった。

その時代の雰囲気はどんなものだったのでしょうか。

さすがに「オランダまで行ってみました」といえない距離なので、当時の記録と出会うことを祈るしかなさそうです。

 

 

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