記憶についてのあれこれ 155 ブルーインパルス

5月29日、東京の上空をブルーインパルスが飛行すると気づいたのが、12時半近くでした。

ああ残念。自宅からはとても見えません。

でも、当日、たくさんの方々が美しい写真をネットにあげてくださっていたので、まるでそこで一緒に見ているかのようでした。

 

子どもの頃に、ブルーインパルスの飛行を見たことがあります。

でもそれが本当の記憶なのか、それとも他の人から聞いた話をつなげた空想話だったのが、急に自信がなくなりました。幼児の頃の記憶話はあやしいですからね。

 

Wikipediaブルーインパルスの歴史を読んでみました。

私の頭の中には「ブルーインパルス」「小牧基地」と記憶が残っているのですが、小牧基地で実施されたのは1971年のようです。私自身はもう少し幼児に近い年齢だった気がするので、もしかしたら、「1966年11月6日に入間基地で開催された第1回航空宇宙ショー」だったかもしれません。ほんと、記憶はあいまいですね。

 

先日と同様にたくさんの人が集まり、みんなで空を見上げていた日のことをかすかに覚えています。

 

自衛隊設立と飛行チームができた頃*

 

自分が生まれた頃の記憶は当然ないので、当時の社会はどんな感じだったかを知る機会は少ないものですね。ひょんなことから、もしかすると当時の人にはこんな想いがあったのか、そういう時代だったのかと歴史が繋がることがあります。

 

ブルーインパルスの「自衛隊設立後」にこんなことが書かれています。

第二次世界大戦終結した後しばらくは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の「301号訓令」によって、日本では航空機の製造や研究などが許されない時期が続いた。これが解除されたのはサンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復した1952年で、同年10月には保安隊が発足し、翌1953年1月からは保安隊航空学校において操縦教育が開始された。さらに、1954年には自衛隊法が成立し、保安隊は自衛隊に改組されることになり、同年7月には航空自衛隊が発足した。 

 

その5年後には伊勢湾台風に多くの自衛官が派遣されました。

士官学校を卒業し終戦を迎えた私の父は、白が黒に、黒が白に変わっていく時代に生きる目標を見失い、精神的にも不安定になった数年を経て、違う社会をつくることを目指していた時期だったのでしょう。

 

そして自衛隊が発足して10年ちょっとたった頃、私は大人の腰ぐらいまで浸水した中、自衛官に助けられ、そして大空を見上げてブルーインパルスをみたのでした。

 

*「皆様へ」*

 

今回のブルーインパルスについて、防衛省防衛大臣tweetが印象に残りました。

医療従事者の皆様へ、経緯と感謝の気持ちを全国の一人でも多くの皆様にお届けするため   (防衛省 航空自衛隊

 

新型コロナウイルス感染症に対応中の医療従事者の方々をはじめ、多くの皆様へ敬意と感謝をお届けするため   (河野防衛大臣

 

 

このような国全体の非常時に、「医療従事者の皆様へ」でも「日本国民の皆様へ」でもなく、「等」「皆様へ」であることにちょっと安堵しました。

 

鵺のような何かが暴走しないために、「国のため」から「国民のため」へと変化した。

後の時代に生きる私には当たり前のような言葉でも、父の世代が大きな葛藤から得た教訓だったと思えるのです。

そして今、「皆様へ」という時代になった。

 

 

 美しく飛行するブルーインパルスをみんなで見ることができるのは、未曾有の感染症拡大で大変でも平和だからこそなのだと、いろいろな記憶が戻ってきました。

 

 

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