散歩をする 262 東舞鶴から西舞鶴へ

念願の小浜の景色も見ることができ、いよいよ北陸道の散歩も終盤です。

 

1日に2万歩以上歩くだけでなく、列車に乗っている時も歩いている時も瞬きを惜しんで風景を見るので、散歩も終わりの頃になると、一瞬、気を失うように眠ってしまうことがあります。

でも、今回はもう一つ気合を入れなければならないことが残っています。

小浜線東舞鶴駅に到着したら、一瞬たりとも気を抜かずに3分の乗り継ぎ時間を逃さないようにすることでした。

あらかじめ駅構内の地図も確認し、どの階段を使えば最短で改札口に出られるかも予習してあります。

目指すのは、北口から出発する京都交通和田線のバス停です。あれだけ確認していたのに、改札を出るときに方向感覚を失い、なぜか反対の南口に出そうになって慌てて引き返し、無事にバスに乗ったのでした。

ここが散歩2日目の計画の、最大の難所でした。

 

 

*東舞鶴から西舞鶴へ*

 

舞鶴市というと周産期医療の話題で2004年ごろからしばしば耳にしていましたが、海上保安学校のドキュメンタリーではなんだか懐かしく感じたのでした。最近では海上自衛隊のニュースでも耳にしますが、私はもう少し前、子どもの頃から旧軍港があったことで記憶にありました。

 

いつか行って見たいと思っていたのですが、今回、計画を立てるときに驚いたのが東舞鶴と西舞鶴の関係でした。

まず、JRの路線が違うことです。東舞鶴駅小浜線は終わり、ここからは舞鶴線になるのですが、東舞鶴と西舞鶴間の列車の本数がぐんと少なくなります。

1時間に2本の時間帯もあるのですが、そのうち1本は特急で、でも普通列車に乗っても西舞鶴・東舞鶴間は同じ6分という不思議な区間でした。

 

そして地図を見ると、東舞鶴も西舞鶴も同じように川に沿って海岸まで街ができています。「舞鶴」というのは一つの街ではなさそうでした。では、どちらを歩くかとずっと地図を眺めていて、閃きました。

どうやら東舞鶴から西舞鶴まで、小さな岬のような場所の海岸線を通るバスがあります。

これに乗るためには、ちょっと疲れた体にムチ打って、列車から降りたらバス停に走るように向かう必要がありました。

 

*和田線で海岸沿いを走る*

 

14時23分に東舞鶴を出発し、25分ほどのバスの旅です。大きな灰色の艦船が間近に見える風景から一旦海を離れ、山の中の道を走ります。

しばらくするとまた海沿いに出て、ここからは海岸線を走るのですが、ここも舞鶴湾内なのでまるで湖の岸を走っているかのようです。

皇帝ダリアがみごとに満開になっている庭がありました。いつ頃、誰がどのような思いで植え、この辺りに皇帝ダリアが広がったのでしょうね。

 

漁港が見え始め、東舞鶴とはまた違う西舞鶴の海岸部が見えてきました。

 

「東吉原」バス停で下車し、ここから駅まで歩きます。

ここで下車した理由は、地図で見つけた水無月神社でした。

 六月の別名を水無月と言います。陰暦六月三十日は「名越し(夏越し)大祓い」といって、茅の輪をくぐったり人形(ひとかた)を川に流したりして半年の汚れを清めます。

 吉原漁民は、昔、竹屋の川尻に住んでいましたが、享保十二年(1728年)の大火によって今のところに移住させられました。ヨシの生い茂る低湿地のため悪疫の流行が絶えず、厄払いのためには、「川下に水無月神社(祭神は月夜児命(つきよみのみこと)をまつって、名越しのお祓いをしたらよい」ということから、寛保三年(1743年)に創祀したのがこの水無月神社です。

さまざまな水の神様の歴史がありますね。

 

伊佐津川という運河沿いの静かな街がある中洲、そこは「魚屋」という住所です。

西側の山に沿って流れる高野川と、そこから別れる水路に沿って昔からの商店街を通り、西舞鶴駅まで歩きました。

舞鶴とは雰囲気が全く異なる街でした。

 

舞鶴と西舞鶴、どんな歴史があったのでしょうか。

そして舞鶴湾の内側を全て歩き尽くしてみたい。名残惜しいまま、京都行きの特急に乗り、今回の散歩が終わりました。

 

 

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