こちらとこちらの記事に、「現代」とはいつのことを言うのだろうと書いたのですが、そこからまた次々と思い浮かんでいます。
鯖街道を知ったのは25年ほど前ですが、私は鯖街道の歴史をそれほど昔に感じることはありませんでした。
1980年代からしばらく生活していた東南アジアでも、市場から離れれば離れるほど干し魚や缶詰の魚になっていきましたが、その生活があまり不思議に感じなかったのも、私が幼少時の1960年代の日本でもまだまだ鮮魚というのは貴重な貴重なタンパク源だった記憶がどこかにあったからだと思います。
鯖街道の話も、私には「現代」に含まれるような感じです。
その小浜市の歴史の中に、こんな記述がありました。
今回の北陸道の散歩では、小浜線の車窓から原子力発電所を見ることができるかなと思っていました。
25年ほど前に、村井吉敬さんたちと小浜に行ったときに、途中であの幻想的な海の向こうに原子力発電所が見えた記憶があります。北陸には5か所の原子力発電所があるようですが、あれは高浜発電所だったと記憶しています。
あの時は車だったので発電所の近くを通る国道を走ったのですが、残念ながら今回は、小浜線の車窓からは見えませんでした。
散歩をするときには、その地域の分娩施設や周産期医療ネットワークシステムをイメージするようにしているのですが、原子力発電所も刈羽発電所や福島第一原子力発電所や第二原子力発電所など、近くを通過できるルートを意識しています。
未曾有の大事故がきっかけになってはいるのですが、それ以前に1980年代に暮らした東南アジアのある地域にも近くに原子力発電所があったこと、そしてこの高浜発電所の記憶がつながりあって、どんな地域なのか歩いてみたいと思うようになりました。
高浜発電所は1974年、美浜発電所は1976年にそれぞれ運転開始しているようですが、1960年代にはこの地域には活発な誘致運動があったのでしょうか。
その時代の雰囲気はどんな感じだったのか、なかなか知ることは難しくなって行きますね。
私が生まれた頃、月への有人飛行が実現し、その月の石を見に夢の超特急で大阪万博を見に行ったのが1970年。
この頃には、次世代の発電に大きな夢が広がる雰囲気だったのでしょうか。
同じ頃、ようやく 誰もが医療にかかることができるようになり、そして誰もが医師のいる分娩施設での出産が可能になっただけでなく、胎児はブラックボックス、生きているか死んでいるかぐらいしかわからなかった1970年代から、今や胎児治療という分野まで広がりました。
この範囲も私にとっては「現代」なのですが、世代が違えばもうセピア色の歴史の一部に見えることでしょう。
25年ほど前に、高浜発電所の近くを通ることも村井さんは計画の中に入れていたのだと思いますが、ダムを見て歩いた時と同じく、その歴史について何か批判するわけでもなく静かに眺めていたような記憶があります。
1943年生まれの村井さんにとって、私の「現代」よりはさらに20年ほどの差のある「現代」を見ていらっしゃったのかもしれないと思うようになりました。
「現代」と感じる幅が広がるに連れ、何かを批判するのは難しく、責任を伴うことに感じるようになるのかもしれませんね。
「境界線のあれこれ」まとめはこちら。