水のあれこれ 158 溜池とダム

私の人生の大部分が溜池とは無縁でしたが、ダムとも無縁でした。

 

ダムのそばを通ったことはあるかもしれませんが記憶になく、初めてダムを見に行ったのは小河内ダムでした。

当時30代になったばかりですが、何がきっかけで一人で奥多摩方面へ出かけたのかあまり覚えていないのですが、想像以上に大きい「都民の水がめ」のダムの高さに驚き、そして怖々と天端の遊歩道を歩いたことだけが記憶にあります。

当時は、こうした公共事業の恩恵で便利さを享受し、そのために人生を大きく変えられた地域があることへの罪悪感の方が強くありました。

 

溜池に関心が出たのが2018年の倉敷での水害で、関西方面に多い溜池の存在が気になりだしました。

以降、少し遠出をする時には沿線の溜池と思われる場所は地図で確認して出かけています。

 

ダムに対して、溜池を見るときには「水不足を補うための重要な農業用の施設」という肯定的な気持ちしかありませんでした。

 

堤体の高い溜池・・・谷池*

 

昨年7月、奈良の荒池の西側がまっすぐになっているのを見て、「これはダムと同じではないか」と印象に残りました。

私が溜池として思い浮かべるのは「皿池」の方でしたから、初めて「谷池」を見たのでした。

 

それ以降、あちこちの車窓の風景で、こうした溜池の堤体が雑木林の中にあるのが目に入るようになりました。なんといっても、瞬きを惜しんで車窓の風景を見ていますからね。

 

そして地図で溜池を探していると片側がまっすぐな、堤体が築かれている、つまりダムと同じ構造のため池であると想像できる水色の場所が案外あります。

 

いにしえより水が乏しい土地柄であったで引用した「奈良盆地における溜池灌漑の成立過程と再編課題」を読み直すと、「中世までの水利施設」にこう書かれていました。

 奈良盆地において、古代に築造されたと考えられる池は、『古事記』『日本書紀』などに記された池と、古墳の周濠池が代表的であろう。『記・紀』などに作池記事をみる池は、大和で30個余りを数える。この池のうち比定地が推定されているのは劔池、狭城池、和珥池、厩坂池、磐余池、益田池などがある。この比定が正しいとすれば前三者は現在も使われているが、後三者は廃池となっている。古墳の周濠池は佐紀・盾列古墳群、柳本古墳群、および垂仁陵の丸池、孝元陵の劔池、宣化陵の鳥屋池などにその典型をみる。末永はこれら大古墳の周濠は「墳墓であるとともに貯水池たるの目的を」古墳築造当時から持っていたと推察している。

 上記の他には、つぎの注目すべき特徴がある。

第1は、ほとんどが谷池的構造であり、その規模が大きい点である。(以下略)

 

中世までにすでに、現代のダムの造りのような溜池が身近にある社会もあったようです。

あの汐留も17世紀初めにできた、いわばダムでした。

 

私はダムというのは近代的な構造物だと思い込んでいたのでした。

もしこういう歴史を知っていれば、「近代的なダムを持ち込まれた側」という思い込みや「ダムは悪」という批判は、一方的であり的外れなこともあったことに気づいたことでしょう。

 

小さな堤体を車窓に見つけるたびに、「ダムは悪」という雰囲気に加担してしまったという罪悪感に疼くのです。

物事を知らないのに、感情で走ってしまったとでもいうのでしょうか。

何かを批判するのは難しく、責任を伴うことに気付いたときには、時を戻すことはできないですね。

 

今年は、水色の端がまっすぐな溜池もあちこち訪ねてみようと、散歩のテーマが増えました。

 

 

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