正しさよりも正確性を 20 脅かしたり叱るだけでは人の心は頑なになるだけ

今年こそはと思っていたのに10日ほどあいてしまい、あわてて秘密の公園に行きました。

いっきに薄紫のスミレが満開になっていました。この時期の定点観測は毎日でなくては意味がなさそうですね。

 

そこは区が管理していて、生物保護のために柵内に立ち入らないようにという注意書きが、景観を壊さない程度に控えめに表示されています。

柵の外からしばらくスミレを眺めていると、元気な小学生が何かを追いかけて柵の中に入って行きました。

「(あ〜私のかわいいスミレが・・・!)」と思いつつ、相手は10歳前後でしょうか、人に注意されても「大人だってやっているよ」と言い返されたら、ぐうの音も出ません。

しばし考えて、「ここはいろいろな生物を保護しているので、入らないように注意書きがあるみたい」と伝えてみました。その表示をみて、小さな声で「・・・僕も保護します」と。

 

ああ、本当にこの子どものころの心のまっすぐさを、私は遠いところにおいて来ちゃったなあと反省です。たぶん、何かに一生懸命で、表示も見えていなかったのでしょう。

それに気づくのが客観的ということであり、気づいていないようなら大人がお手伝いするという感じでしょうか。

少年たちに「保護してくれてありがとう」と伝えて、公園を出ました。

 

若い人たちのせいにしてはいけない*

 

緊急会見のあとから、どうも「気の緩み」がトレンドになったようで、渋谷や表参道を歩く若い人たちに「なぜ外出しているのか」というインタビュー場面が、ニュース番組のたびに放送されていました。

 

いきなりマイクを向けられても、今までの思いのどれだけを表現できることでしょうか。

もしかしたら、一見ちゃらく映し出されたその人たちも、この数週間の間に人生が変化してしまうほど心が折れていたかもしれないのに。たまたま外に出ただけかもしれないのに。

休校になったり、卒業式がなくなったり、アルバイトがなくなったり、友人とも会えなくなったり、この世代の成長発達過程の大事な時間が失われていることに耐えていることに対して、もう少し共感してあげたらよかったのに。

 

震災だと、「子どもたちの心のケア」という言葉が飛び交うのに、今はなぜ若い世代の人たちに責任を押しつけるような視線になるのでしょうね。

 

 

*どのように行動したらよいか、もう少し正確に伝える必要があるのではないか*

 

例えば3つの気をつけることの中で、「間近で会話や発声をする密接場面」があります。

他の、「密集」「密閉」は感覚としてもわかりやすいし対応もしやすいのですが、この「密接」を具体的にはどうしたらよいのか、もう少し提示することが、今回の接触感染を予防する中の鍵になるのではないかと思えます。

ところが、ようやくこの接触感染への理解が広がり始めたのに、まるで若い人が歩いているだけで感染を広げるかのような(空気感染)と混乱しているかのような報道ですね。

 

朝の通勤時間の電車ではほとんど喋る人がいないのですが、日中の車内は隣りに座った人や目の前に立った人が連れの人とずっと喋っていて、このご時世だからちょっと控えてくれるといいなと思うことがあります。

これも、「間近で会話をする密接場面」だと思うのですが、案外、意識していない人がいるようです。

 

なぜ日本は今まで爆発的に感染が広がらなかったのだろうというみんなが感じている疑問に、「ハグやキス、握手が少ない文化」とか「一つのお皿からみんなで食べあうことが少ない文化」、最近ではイタリアの看取りの時の宗教的な文化とかの話もありました。

そうだとはまだ言い切れないけれど、接触感染の機会としてはさもありなんと思える内容です。

 

日本でも若い世代の人たちが、気軽にハグしたり、家族とキスしたりする時代ですから、このあたりの人と密接になる行動も控えようと、いう呼びかけがあってもよさそうです。

あるいはそういう仕事内容の人たちも。

 

 

今、現在、可能な限りの接触感染を防げる方法は何か。

そこがブレてはいけないと思うのですけれど。

それでも爆発的に患者が増えた場合の医療の限界は、それは別の問題だと思います。

 

 

ところが、「花見に行ったら、来年は会えないことになるかもしれない」という脅し文句があるようで驚きました。

 

 

会議だって、会見だって、ぎっしり人が集まっているニュースを当たり前のように見ているのに、なぜ渋谷を歩いただけで「気が緩む」と言われるのか、そりゃあ納得いかないと思いますよね。

 

 

 

 

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