鵺(ぬえ)のような 13 目が泳ぐ

次から次へと絶望感を感じさせることの正体が見てくる中で、「知りませんでした」「何が問題なのかがわからない」「これからは祝電は送りません」と答える人の目がみなさん泳いでいたり、泳いでいなければ口元に引き攣ったような笑みが出ているという共通点がありますね。

 

「目が泳ぐ」、いつ頃できた日本語なのかわかりませんが、よく観察した表現だと変なことで関心しています。

 

「皆で顔を隠す。主体を消し去る。責任主体がどこにもない」

今までの政治の手法なら、これで時間稼ぎをすればいつの間にか人の話題にのぼらなくなるのを待てばよかったのかもしれませんね。

そういえば昔、「禊ぎが済んだ」といった元首相は誰だっけと検索したら、みそぎ選挙なんて言葉まであるのですね。

 

こうした手法に古臭さを感じるのは、政治家として働き続けたい人と社会の意識がすでに大きくすれ違っているからかもしれないと思えてきました。

社会の構造には膨大な専門知識や経験あるいは歴史の集積があって、それを束ねるのが政治で、この30~40年ほどの医療の変化を思い出しただけでも大昔に感じるほど、その社会が驚異的に変化しています。

あるいは以前は「底辺の仕事」かのように思わされていた仕事も、学問的な体系ができてリスクマネージメントも浸透すれば専門的なものへと変わることでしょう。

 

そして30年ほど前に医療が新しい皮袋を手に入れて大きな変化をしたように、失敗学に基づいて政策を決められるような仕組みができれば、選挙に勝つためにイデオロギーであるいは言葉で殴り合う必要もないし、あるいは自分の推している政策を実行するために裏の手を使わなくて済むようになるのに。

そういう社会になったら、自分の犯した過ちに過ちを重ねることもしなくて済むのではないかと。

 

ちょっと偉そうにこんなことを書けるようになったのも、インシデントを認め、報告する方法を仕事で実践するようになったからで、自分の過ちを隠すために目を泳がせなくても済むという希望ができたからだと思っています。

 

いつか政治家の皆さんにも失敗を生かせるヒヤリハットの機会ができるでしょうか。

それができなければ、リスクマネージメントが浸透している社会から置いていかれ、今のような政党政治や選挙方法そのものが不要になる時代も来るかもしれませんね。

 

 

 

 

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