2005年に訪ねた横浜国際プールがあるあたりは鶴見川左岸なのかそれとも多摩川右岸と言うのかはよくわからないのですが、低い丘陵地が折り重なるようにあって、ほんの少し前は人里離れた地域だったのだろうというイメージでした。
20年ほどたって再び歩いてみると、ひとっ飛びに隅から隅まで開発されて洗練された街にしたような驚きでした。
今回は南から北へと歩きましたが、起伏のある複雑な地形にこれだけの構造物ができたことにも驚きです。
鶴見川左岸の地形はどんな特徴があるのだろうと思っていたら、「茅ヶ崎公園自然生態園」のサイトに詳しい歴史が書かれていました。
1. 太古
紀元前4,000年前
人間が住み始めるはるか昔(12万年ほど前)、相模湾が関東平野まで入り込んでいました(下末吉海進)。その後、海は引きましたが人間が住み始めた縄文期には再び小規模な海進(縄文海進)があり、この辺りは入り江だったようです。付近に茅ヶ崎貝塚、堺田貝塚などがあるのはそのためです。こうした貝塚のほかにも人間の暮らしの痕跡がこの地域には多数存在しています。生態圏内には縄文時代早期と中期の遺跡が確認されています。東山と西山の尾根に集落や炉、猟場(落とし穴)、どんぐり等を蓄えた穴と考えられる址が見られたそうです。1万年近く昔、人々はここでどんな暮らしをしていたのでしょう。
横浜の沿岸部は昔は海だったことは耳にしたことがありますが、あの起伏の激しさがその跡だったのですね。
だからあのあたりに古墳や遺跡が残り、それを公園にしているようです。
昨日の記事で、洗練されすぎているような遊歩道に「ちょっと飽きた」と思ってしまったのですが、もう少し範囲を広げてやはり北山田駅あたりの公園まで、川や公園をつないで歩いてみると、この太古からの地形を理解できるのかもしれませんね。
そして鶴見川流域の地理に書かれた内容も。
鶴見川流域は、標高80mから150mの低い丘陵地帯が分水界をなし、河床勾配は、源流から恩田川合流付近までの上流部で約1/250、沖積低地の中下流部で約1/1000の緩勾配となる。流域の大半が大きく起伏した丘陵・台地のため、かつては開発されることもなく、自然豊かな環境・景観が形成されていた。しかし、1960年代(昭和30年代半ば)に始まる高度経済成長期から、流域周辺は人口が急増し、住宅地として急速に開発が進められた。1958年(昭和33年)には流域内の市街地率は約10%、人口は約45万人であったが、2003年(平成15年)には市街地率約85%、人口約188万人となっている。この市街地化の結果、谷戸や低平地の農地はほとんど姿を消し、自然主体の流域から都市主体の流域へと変貌した。
港北ニュータウンの開発とか都筑区のあたりで水田や里山を残すための活動について、ほとんどその地域とは無縁だった私でさえところどころ記憶にあるのは、やはり住宅地と自然との境界線が驚異的に変化した時代だったからかもしれませんね。
その「茅ヶ崎自然生態園」には港北ニュータウン開発と公園整備、そして生物相保護区などの歴史がまとめられていて、ここ半世紀ほどの記憶を整理することができました。
「昔から住む方のお話」もあるのですが、主に「自然が豊かだった」という記録でした。
生物学的には自然豊かな土地だったとは思うのですが、散歩をしてみてあの地形の印象から、おそらく鉄砲水や洪水で何度も財産や命を失った歴史もあったことと思います。
そのあたりは掘り起こされて歴史になっていくにはまだ時間が必要かもしれませんね。
洗練された小川のある遊歩道や池のそばの雑木林は安全に整備されていたので、そういう危険だった歴史を想像することが難しかった。
それが、珍しく遊歩道を歩きながらちょっと物足りなく感じてしまった理由だったのかもしれません。
いえ、これはあくまでも私自身の理解の浅さの問題ですけれど。
「行間を読む」まとめはこちら。