新座市民体育館にあった玉川上水から野火止用水の全体図を眺めていたら、以前から気になっていた地名を見つけました。
「水子」です。
まず思い浮かぶのが水子供養ですが、なぜこれが地名に使われているのだろう、どんな場所なのだろうと、いつか訪ねるつもりでした。
ここにも水車を使いながら野火止用水からの水が送られていたように、その全体図には描かれていました。
東武東上線のみずほ台駅が最寄りの駅ですが、もう一つ先の鶴瀬駅のそばに谷津の森公園、そして氷川神社もあります。
そこからスタートすることにしました。
東武東上線は平地を走っている私鉄というイメージだったのですが、何本も川や水路を超えるので車窓の風景は結構起伏のあるものでした。
*谷津の森公園と氷川神社*
鶴瀬駅の駅前もすでに下り坂になり、なんだか複雑な地形です。そのまっすぐ行ったところに雑木林が見えて、谷津の森公園がありました。「谷津」ですから、外からはわからないけれど谷であることが想像できます。
地図では、そこから先に一つ目の氷川神社(富士見市鶴島)の前に水色の川らしき線が描かれています。谷津の森にはこんこんと湧き上がる泉があるのだろうと期待したのですが、かつて泉だったのではと思う小さな湿地があるだけでした。
ところが、谷津の森を出ると上り坂になり、住宅地がある丘になります。そこは崖のようになり、そばを水量の多い川が流れていました。たどるとやはり谷津の森に始まり、この谷をつくったように見えます。
もう一度下り坂を降りると、目の前の島のような場所に氷川神社がありました。手前は畑で、その向こう側は、おそらくその川を利用していると思われる水田が広がっています。
そこには谷の斜面を利用した住宅地があって、バス停には「前谷住宅」とありました。
建物の雰囲気からも、ここ20〜30年に建てられた住宅地に見えます。
谷津から谷地へと下りると、そこには新河岸川の支流に沿って広い田畑が広がっていました。
10月の終わり頃に歩いたのですが、静かな田園地帯に菊とコスモスという秋の風景です。
*水子と水子貝塚*
その支流の右岸沿いには、山崎公園が整備されています。黄色く色づいた葉が風に舞って落ちる中、しばらくこの谷地の風景を眺めました。
地図ではその公園の続きに「水子」という地名が記されていますが、実際には、小高い場所をもう一度上り下りした反対側のようです。
そこへは切り通しと思われる道が通っていて、そばに昔からの農家だろうと思う大きな家がありました。
そこからは新河岸川に向かって、広い水田地帯が広がっています。ここが「水子」のようです。
もう一度少し小高い場所へと上ると、そこにふたつめの氷川神社(富士見市水子)があり、そこには畑が広がっていました。水田の低地へ向かう斜面も綺麗に整地されて、畑になっています。
氷川神社の道をまっすぐ歩いたところに、水子貝塚公園がありました。「水子」の由来がわかるかなと、資料館に立ち寄りました。
"この場所”が「ここ」、"その場所"が「そこ」という具合に、「こ」という言葉には"場所"という意味があります。「水子(みずこ)」という地名には「水が有る所」という意味が含まれています。その名にたがわず、富士見市水子地区には多くの湧水が有りました。この湧き水に引かれて、古くから、人々が集って多くの遺跡を残し、現代まで多くの村が作られ続けました。
それらのうちの一つが「水子貝塚」です。水子貝塚には今から5500年前、縄文時代前期と呼ばれる時期の貝塚を中心に、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、平安時代など、多くの時代の活動の跡が残されています。
ああ、知りたかったことが書かれていました。
展示の中に、この貝塚のある場所から他の島のような場所へ舟で移動していたらしいことが記されていました。
関東平野が海底だった頃でしょうか。
あの谷津の森も、そしてふたつの氷川神社のある高台も、海底の小高い場所だった時代があったのでしょうか。
野火止用水からこの地を歩いてみようと思いついたのですが、江戸時代なんてまだまだごく最近だと言える歴史に圧倒されながら資料館を出ました。
まだこれからあと3つの氷川神社を訪ねます。
「水の神様を訪ねる」まとめはこちら。