現代の「身分が高い」というのは、「経済力がある」とか「発言力によって世の中に影響を与える」立場とでもいうのでしょうか、そういう人が政治家を職業にしてしまったことが、このところの空しさの理由ではないかと思い始めました。
そういえば旧約聖書の中のイスラエルの民も王国と王を求め、権力を持つという失敗に翻弄された歴史のようにも読めますね。
自分は民を率いるのにふさわしい、現代でいえば政治家にふさわしいとか政治を動かすのにふさわしいという思い込みはどこからくるのだろうと。
以前なら、政治家には国民のためにあるいは世のために何をしたいのか理想や目標があり、それに向かって新人から達人までの段階があるのだろうと思っていました。
自治体の議員さんや首長さん、国会議員というのは難しいことを解決するために経験が必要なのだと。
一生をその仕事にかけるぐらいの熱意と経験が必要な仕事なのだろうと。
ところがしだいに選挙公報を前に「もう何が何だかわからない」と思うことが増え、イメージやパフォーマンスだらけの「政局が大事な政党政治」だということがはっきりしてきました。
「〇〇党」がとか「〇〇主義」がではなく、こういう政策になればと思って投票しても結局政局の問題になり、そして生活している人の声は届かない。
なんと空しいことでしょう。
失敗だとわかれば責任を持って方向転換を試してみれば良いのに、すぐに政局の話になってしまい、問題点も解決方法も、そのために国民が声をあげたことも有耶無耶になってしまう。
なんと空しいことでしょう。
すぐに「内閣改造」「解散」という話が出てくるのはなぜだろう。
大臣になった人はその省庁の中でなにをするために任命されたのか、道半ばなのに首相の匙加減ひとつで解任されて仕事を継続できなくても平気なのだろうか。
「解散で信を問う」というのであれば、むしろ同じ大臣が続ける方が辻褄が合っているではないかと思うのですけれど。
ああ、そうだったのか。当選回数が大事で、大臣になることを待っている人がたくさんいるのか。
なんと空しいことでしょう。
それなら、その分野で専門性のある人に委ねてくれたらよいのに。
このところ自分の中学・高校時代の暗黒史を思い返しています。
私自身、学級委員とか生徒会役員になるべきと思い込んでいるところがありました。
それらしい「公約」を掲げて選挙で選ばれるのですが、実際になると自分が何をすべきなのかわからないので、「校則を変える」とか「学園祭を成功させる」とかそんなうまい話しか言えなかったのですね。
そして、ほんとうに困っている級友を静かに支えているような人がいたことも目に入らなかったのでした。
ああ、穴があったら入りたい。
たぶん、国会議員さんの中にもそういう人が多いのかもしれませんね。
「自分は議員になるべき人物である」
国民の生活とは何かも知らず、社会とは膨大な専門知識や経験あるいは歴史の積み重ねがあることもよく知らないのに、その思い込みはどこからきているのでしょう。
その専門性がまだ明文化されていないたくさんの仕事によって世の中は支えられている、そういうところを見逃さずに働き続けられて不平等の少ない世の中にしてくださったらよいのに。
そして議員として自分が関わったことがひと段落したら、また自分の専門の仕事に戻っていく。
政治とはとか政治家それ自体がとても不確かで専門性が明らかにされていないから、失敗が生かされにくいとも言えるのかもしれませんね。
旧約聖書の時代からすでに記録されているこの空しさですが、こうしてそれぞれの時代に葛藤することで、また次の時代をよくしていくことにつながる。
空しいけれど、それは希望の始まりとでも考えることにしましょうか。
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