香川用水の水路を渡ると、美しく整備された香川用水記念公園が広がっています。
人工の池や小川、水車などが遊歩道のそばにあります。おそらく夏休みや学校の行事があれば、たくさんの人が訪れるのでしょう。
この日は、広大な公園を独り占めしました。
目指した東西分水工は残念ながら改修工事中で柵の外から見るだけになりましたが、もう一つの目的は公園内にある水の資料館を訪ねることでした。
園内には用水についての案内板もあちこちにあります。
香川用水のあらまし
ー香川用水は高知・徳島両県の友情の水ですー
高知県の早明浦ダムで貯えられた香川用水は、吉野川を流れ下り、徳島県の池田ダムに入ります。
さらに阿讃山脈を貫く延長8kmの導水トンネルを通って香川県に初めて出てくるのが、ここ東西分水工です。この間、約70kmの旅をした香川用水はここから98kmの幹線用水路で、東は東かがわ市引田町、西は観音寺豊浜町までの県内すみずみまで配水され農業、水道、工業の用水として県民生活に役立っています。
やはりあの香川県東部の「田」がつく地域までここから導水されているようです。
1990年代後半に細川内ダム建設反対運動に揺れていた木頭村を訪ねた頃は水利施設についてはほとんど知識もなかったのですが、それでも四国の水不足といえば早明浦ダムとすぐに思い浮かぶほどニュースで耳にしていました。
香川用水は徳島県側から吉野川の水を香川県へと送る2県間の事業ではなく、高知県もまた繋がっていたのだと、この案内板を見て理解できました。
ここもまた、水争いを克服して「禾黍油油」の大地を生み出した長い歴史が刻まれている場所ともいえそうですね。
*4名の殉職者*
水の資料館へ向かう途中、小さな石碑があるのが目に入りました。もしかすると慰霊碑かもしれないと近づきました。
「昭和四十九年春 水資源開発公団建」「慰霊碑」と彫られた石に、4名の方々の名前が刻まれていました。
どのような事故だったのでしょう。
4名の方の右から三番目の方は女性でした。
みなさん、どのような人生を送られていたのでしょうか。
1974年(昭和49)は中学生だったのですが、当時住んでいた山間部では小学生の頃にしばしばあった断水や停電からほぼ解放されていました。
そして開通したばかりの山陽新幹線に乗って祖父母を訪ねたのでした。
最近、こうした殉職された方々の記録に思い返すことが増え、人生の年表が少しずつつ過去とながるようになりました。
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