散歩をしていると、古代から現代、そして自分が生きてきた時代を行きつ戻りつ考えることが多いので、散歩の記録もついつい寄り道が多くなります。
浜松の高校生殺人事件の被害者と犯人が赤ちゃんだった時代はどんな感じだったのだろうと考えていたら、その少し前のあたりから「正常なお産は助産師で」という医療の急激な進歩の中の葛藤の時代になったこと「骨太の方針」に生活全般が骨抜きにされてきた影響力を考える、壮大な寄り道になりました。
さて、2月中旬、今回の散歩の最終日の天竜川の治水と利水を訪ねる散歩の記録です。
小雨がときどきぱらついていましたが、なんとか午前中は天気が持ちそうです。
ホテルの窓から見えていた国道152号線は、平日の朝6時半ごろには浜松方面への通勤の車で混んでいました。8時半頃は両側の交通量が増え、その道をてくてくと天竜川の堤防方面へと歩くと住宅街の中にも屋敷林が残る昔からの家が残っていました。かつては水田が広がる農村地帯だったのでしょうか。
国道1号線の高架橋の下を抜けて県道312号線沿いにしばらく歩くと小さな安間川(あんまがわ)を渡りました。その先に二手に県道が分かれてその一つが「旧東海道」で、旧東海道に面している大きな黒い屋根と蔵を持つ古い民家が金原明善記念館でした。
*金原明善没後100年*
どっしりとした家の中に入るとさまざまな資料が展示されていました。
出かける前にWikipediaの金原明善を読んだのですが、その行間を埋めるかのような膨大な資料や絵図でした。
1868年(慶応4年)5月、天竜川は大雨により堤防が決壊。浜松及び磐田に大被害をもたらした。天竜川は1850年(嘉永3年)から1868年(慶応4年)にかけて5回の大規模な決壊を記録しており、特に嘉永3年、明善19歳の時に遭遇した洪水は一瞬に安間村を沈めてしまった。それは明善にとって一生わすれられない災害であった。天竜川沿岸に住んている人達の苦しむ様に途方に暮れていた時に、明治維新をむかえる。そんな新政府の「政体」の布達が明善に希望を与えた。
ちょうど昨年、没後100年だったようです。
金原明善没後100年
2023年(令和5年)1月には、1923年(大正12年)に金原明善が没してから100年を迎えます。当時の天竜川は「暴れ天竜」という別名を持ち、ひとたび大雨が降れば、沿川の集落だけでなく、時には浜松市街地付近まで洪水の被害をもたらしていました。
明善翁は、下流両岸の堤防建設を進めただけでなく、中流の山間部に植林をし、製材の販路を広げるなど、多岐に活躍しました。近代の浜松を支えた先人の一人として、明善翁の功績を紹介します。
(金原明善記念館、展示より)
その年表に「1850年 嘉永3年7月 19歳 天竜川が各所で決壊し、洪水被害を体験する。東海道の交通も止まる」とありました。
*天竜川の治水工事に奔走*
その後43歳の時には「天竜川通堤防会社を設立」、46歳で「内務卿大久保利通に面会し、全財産を寄付して天竜川治水の補助金を得ることを認められる」とありましたが、それがWikipediaのこの箇所のようです。
1877年(明治10年)、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿大久保利通に築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の百姓が内務卿への謁見は叶わないと思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に入っていたからである。そして、近代的な治水事業が始まり、主に堤防の補強・改修をはじめ以下の5点を実施した。これらは後年の天竜川における治水計画の基礎となった。
1. 天竜川を西洋式の測量器を使用して全測量
3. 天竜川河口から二股村に至る実測量
4. 駒場村以下21箇所の測量票建設
5. 自宅に水利学校を開き、治水と利水の教育を行う
*天竜川の詳細な地図*
水害にあったことで一生涯を治水や利水に捧げたことに圧倒される展示でしたが、奥へと進むとそこには大きな天竜川全域の地図と、さまざまな時代の地図や絵図がありました。
こうした川の歴史の展示のある資料館は、全国あちこちの川を訪ねてもまだまだ少ないものです。
現在の天竜川からは想像ができないほど、山あいを抜けて出てきた天竜川は複雑な定まることのない流れとなり、1898(明治22)年ごろはまだ各所に輪中が残っていたそうです。
明治から大正へと、しだいに天竜川の地図が正確になっていく様子が一目でわかりましたが、これもまた「1. 天竜川を西洋式の測量器を使用して全測量」する計画によるものだったのでしょうか。
*「近代的な治水事業」とは*
金原明善記念館の2階には、「治水と利水の教育を行う」水利学校の資料も残されていたようです。
実業のための教育の機会を開く、という感じでしょうか。
今回は残念ながら水利学校の資料は見学する時間がなかったのですが、明治時代の「近代化」というのはさまざまな技術の驚異的な変化だけでなく、人の意識とか概念の変化もまた大きく影響をした時代だったといえるのでしょうか。
江戸時代までの封建的な圧政の時代に、各地で新たに生まれ変わろうとする力が大きく開いた時代でもあったのかもしれませんね。
まさに金原明善氏もまた後の世に「郷土の先覚者」となった方だったと思いながら、記念館を後にしました。
当日の資料の写真などを読み返しながら、バス停にある「天竜森林組合」のどっしりとした木のベンチも金原明善氏の遺してくれた森からだったのだとつながりました。
*おまけ*
治水と利水だけでなく、幅広く金原明善氏の思いが残されていた資料館でしたが、印象的だったのは更生保護制度を始めたことが展示されていました。
更生保護制度の先覚者 金原明善
明治時代、静岡監獄にあらゆる罪科を重ねた囚人がいました。多くの看守が手を焼く問題受刑者でしたが、当時の副典獄(副所長)の熱心な指導が功を奏して心底悔悟するに至り、10年の監獄生活を終えました。
しかし、監獄を出て我が家に戻ってみると、もはや父母はなく、妻は他人と再婚しており、寝るに宿なく、食するに一文もないという状況に陥ってしまいました。副典獄との約束で二度と悪いことはできません。思い余った彼は、池に身を投じ、自らの命を絶ってしまいました。
金原明善翁はこの話を聞き、「改心して監獄を出た者を社会の中でしっかり保護する方法を考えなければならない。」と思い立ち、1888年(明治21年)、「静岡県出獄人保護会社」(現更生保護法人静岡県勧善会)を設立しました。これは我が国で最初の更生保護施設といわれています。
翁の尊い精神は全国に広がり、戦後、関連法令も整備され、我が国の刑事政策の一翼を担う現在の更生保護制度へと発展しました。
没後一世紀の間、社会は驚異的に進歩した反面、驚異的に退行してしまった部分もあるのかもしれませんね、自分の富と権力だけを守ろうとする方向へと。
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