散歩をする 509 堀留川沿いにJR東海浜松工場のそばを歩く

木のベンチでの休憩に助けられながら新居町駅へ向かいました。

念願のあの東海道新幹線の車窓から見た船溜まりの近くも歩くことができたし、すでに2万5000歩も越えて疲れたのでこのままホテルに戻ろうかなと挫けそうになりましたが、まだ14時過ぎです。

 

新居町駅で浜松行きの列車を待つ間も、目の前を何本も新幹線が通過していきます。

そのうち、その速度でこだまかひかりか、あるいはのぞみかわかるようになりました。浜松駅で停車するかどうかで速度が違いますからね。

乗っている時にはあまり気づかなかったのですが、新居町駅のあたりでは車体がかなり浜名湖側へ傾きながら走行しているようです。脱線しないのがすごいですね。

新幹線を見ていたら、やはり計画通りもう一か所訪ねようと決心しました。

 

ただしJR高塚駅から歩く予定だったのは無謀すぎることがわかったので、浜松駅に戻り、そこから最寄りのバス停までバスに乗ることにしました。

 

 

*堀留川と井場遺跡公園とJR東海浜松工場*

 

この計画はだいぶ前からありました。

2020年にたまたま手に取った雑誌でJR東海浜松工場を知りました。以来、E席に座る時には見逃さないようにしています。それまでなぜ気づかなかったのだろうと思うほど大きな工場で、夜に通過しても「JR東海」とピンク色のライトではっきりとわかります。

南側の車両基地にはさまれて堀留川と井場遺跡公園があり、浜松工場のすぐそばを歩けるようです。

 

今回は浜松に宿泊するのでぜひと思っていたところ、その堀留川と金原明善の疏水計画とつながりました。

 

堀留川は「明治4年、井上八郎と田村高蔵が発起人となり近隣の労力奉仕で完成した」運河(Wikipedia「堀留川」)のようですが、金原明善はさらに天竜川からの水をこの運河などに流す壮大な疏水計画を考えていたようです。

疏水事業

明善は、1899年第三番目の事業として疏水事業を計画した。これは、水量豊富な天竜川を二つの方向に分水。一つは三方原台地に通して堀留運河(現・堀留川)に連絡、そして舞阪町に至らせる。そして、もう一つは都田川から浜名湖に通ずる様に計画された。目的は、以下の3点であった。

 1. 運河を利用して材木などの輸送を行う。

 2. 三方原台地の農業を発展させる。

 3. 浜松地区の工業に必要な水を確保する。

Wikipedia金原明善」)

計画は不採用だったようですが、現代への基礎となる計画ともいえそうです。

 

2019年春に天浜線で天竜川を渡り、西鹿島のあたりを歩いた時にみた水路、あれがそうだったのだとつながりました。

 

 

*JR浜松工場バス停から歩く*

 

浜松駅からバスに乗り、途中、現代の都会の真ん中を通る旧東海道も見え、15時ちょうどにその名もJR浜松工場バス停で下車しました。

左手は浜松工場の敷地ですが歩けど歩けどずっと南側の道路にまで到達しません。疲れ果てた頃にちょっとだけ真新しい東海道新幹線の車体が見えて元気になり、工場への新幹線の引き込み線でしょうか、踏切を二つ渡って数百mほど歩いてようやく堀留運河へと出ました。

 

そこから東へ運河沿いに歩きます。車窓から見えていた「JR東海浜松工場」のロゴがそばに見えるのに、これまたなかなか近づきません。

新幹線の車体自体が16両で約400mだそうですから、さもありなんですね。

 

井場遺跡公園の中の東屋で休憩しました。目の前に浜松工場があります。

井場大溝(古代の小川の跡)

 約1500年前から1000年前まで、ここには小川が流れていました。この小川は、公園北西の団地付近から、公園南東の森田・神田町の方向に流れていました。ここでは、その一部を発掘当時のまま保存しています。

 大溝の中からは、土器や木製品のほか貝殻などの食べかす、まじないの道具、さらには、この付近に、古代遠江国(とおとうみのくに)の敷智郡(ふちぐん)の役所があったことを示す木簡(もっかん、墨で字を書いた木の札)が大量に発見されて全国的に注目されました。

 

弥生時代の環濠

 約1900年前の弥生時代後期に、村を外敵から守るために掘られた濠(堀)跡です。集落を囲む三重の濠は合わせて12~13mに及び、間には土塁もありました。村は、濠の内側で120×90mの広さがあり、ヒョウタン形をしています。濠の内側と西側で、平地式住居跡と高床式倉庫跡が発見されました。濠からは多くの弥生土器のほか、装飾された木の鎧、銅鐸と同じ模様や水鳥が描かれた祭祀用の土器も出土しました。この村は、特殊な遺物があり、守りを固めた環濠集落であることから、西遠江の中心的な村であったと考えられます。

 

ここでもまた環濠集落という言葉と出会いました。

 

井場遺跡に沿って歩いているうちに、ようやく浜松工場の東の端に出ました。

間近であのロゴを見上げるように眺め、満足しました。

 

 

*堀留緑道を歩く*

 

ここから堀留運河の暗渠部分まで300mほどが、堀留緑道として整備されていました。

 

堀留運河

 明治時代中期に至るまでは、最も便利な交通手段は、船を利用することでしたが、浜松には港も、船を乗り入れる運河さえもありませんでした。

 明治4年、時の静岡藩浜松勤番組頭の呼び掛けで、付近住民と旧士族のべ2,000人以上が奉仕的に参加して、現在の菅原町から入野町までの約850間(約1,530m)にわずか3ヶ月あまりで運河を築き、入野町から浜名湖へ流れる水路とつなげ、浜松と浜名湖西岸の新所(湖西市)の間約6里(約24km)に旅客や貨物を輸送する船便を運航しました。

 交通の主役が舟運から鉄道等に移り代わるまで、この堀留運河は重要な交通路として、今日の浜松の飛躍的発展の源として広く親しまれてきました。   浜松市

 

緑道から歩道へと変わると、そこにタイルが埋め込まれていました。

1872年(明治5年) 日本で初めて東京の新橋と横浜間に鉄道が敷設され、蒸気機関車が走った。この鉄道業務を開始した10月14日を鉄道記念日とした。

1876年(明治9年) 入野と湖西市新所間に蒸気船が就航した。これは蒸気により水車を回して進む仕組みであった。

1881年明治14年) 井ノ田川を通る船から料金を取り、この運河を維持管理する堀留会社が設立された。その社名から堀留運河と呼ばれるようになった。

(同年舞阪、新居間に浜名橋が架けられた)

1888年明治21年)9月 堀留運河の南側に東海道線の鉄道が敷設され、浜松と大阪府間で開通される。翌22年には、東海道線(新橋〜神戸間)が全通となり、交通は船から鉄道へと急速に変わっていった。

 

弥生時代の小さな小川の環濠集落から、蒸気船を通す運河へ。そして間も無く鉄道に取って代わられるという驚異的に変化した時代を、歩いているだけで知ることができました。

 

そしてその東海道本線を走る蒸気機関車の整備のために1912年(大正元年)にできた浜松工場は、東海道新幹線の安全を支え、安全を追求する工場になった。

 

なんだかすごいなあと、ふわふわと歩いて浜松駅行きのバスに乗り、散歩の2日目が終わりました。

 

 

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