生活のあれこれ 52 「三日天気が続けば、はねつるべ」

愛知(えち)川流域の田んぼに水を行き渡らせるようになった1972(昭和47)年の永源寺ダムについて、「水土の礎」にこんな話がありました。

 

9. 永源寺ダムとほ場整備に感謝

 愛知川右岸愛荘町東円堂地区には明治時代、東円堂では「三日天気が続けば、はねつるべ」といわれ、水利は「はねつるべ」によって地下水を人力で揚水するのが常であった。そのために水田三、四枚ごとに必ず井戸があり、「はねつるべ」を用いた。「1日に1cmぐらいの減水の場合、1畝あたり50〜200回の水汲みを必要とした」(『愛知川水利史』)というから、大変な労力であった。

 

高校生まで一時期過ごした家の前には水田がありました。朝は水が波なみとあるのに、午後になるともう土の表面がひび割れるくらい水がなくなるのを当たり前のようにみていました。

翌朝には水路からまた水が送られているのでそんなもんだと思っていたのですが、「1畝あたり50~200回の水汲み」とは。

 地域の古老はいう「いま振り返れば、稲作に従事するわれわれには、水利に関して二つの革命がありました。一つは永源寺ダム完成による用水整備のおかげで大規模なほ場整備が進み、併せて安壺川(*あんこがわ、引用者)の改修、中部排水路の整備により安心出来る集落となり、農業も大きく変わった。これに遡る最初の大革命は、動力による灌漑用の揚水ポンプができたこと。大正時代の末頃でしょうか。あの大変な『はねつるべ』から解放されたのですから、どんなにありがたかったことか。昭和6年か7年にきつい大旱魃があって、やかんに水を入れてヒビ割れにかけたそうです。旱魃の最中、その程度では何ほどの足しにもならないですが、しかし気持ちはよくわかります。

 

現代でも梅雨時の田んぼの水不足が聞こえてくるとその地域のニュースが気になっていますが、農業用水がまだ整備されていなかった時代の過酷さは想像できないものですね。

 

 

*水利慣行が人間関係を形成する*

 

あちこちの水田地帯を歩くようになって、昭和に入ってもまだまだ各地で水争いがあったことを知りました。

 

「水土の礎」にその上流から下流への水利慣行について書かれていました。

2. 稲作社会は「水社会」

 畑作農業とは異なり、自然流下型灌漑方式をとる水田では、地域の上下流によって、水利用の難易・優先順位が定まり、上流は常に下流に対して優位に立ち、このために下流側は水利的には常に不利な立場に立たされる。一方、古く開発された水田は、新しく開発された水田に対し、水利的に常に優位な立場に立つことが出来る。この上流優位、古田優位の原則は、水田開発が進むにつれ、より強固なものとなるが、同時に下流地区・新田地区からの水に対する要求も強くなり、種々の約束が行われることとなる。これがいわゆる「水利慣行」の成立である。この慣行は、程度の差こそあれ、わが国の水田地帯ではどこでも見られる一般的な慣行であり、時として水利条件の厳しいこの水利慣行に縛られて種々の人間関係が形成されてきたのである。このような、水利開発が基本となって、基本的なわが国の政治・経済体制が形成されてきたと考えられる。

(強調は引用者による)

 

「厳しいこの水利慣行に縛られて種々の人間関係が形成されてきた」ことの例として、こんなことが書かれていました。

4. 永源ダムによる恩恵

 この厳しい水利環境のために、独特の人間関係・社会関係が形成されてきたように思われる。例えば、井堰関係に長年たずさわっている古老の話によると新郷井では、川上と川下では縁組は全く行われなかったようである。同一井堰をめぐる上下流の対立の厳しさが社会制度に影響した実例と言える。

(強調は引用者による)

 

「水争い」「水利慣行」、言葉を知っているだけでその生活史を何も知らなかったと痛感しました。

 

 

*農業用水の整備は労力の軽減だけではなかった*

 

永源ダムの恩恵では、続けて立ち退きのことも書かれていました。

このように不安定な水源では水争いが絶えなかったため、安定水源を確保し食糧増産を図る必要から、昭和27年(1952)に永源寺ダム建設計画が樹立された。このダム湖底には佐目、萱尾、九居瀬、相谷集落の213戸の家屋が水没となり、大昔より住み慣れた故郷を離れるには忍びがたいことであったが、格別の理解と協力によって隣近所それぞれ移住先は異なったが移転された。

 そのおかげで昭和47年(1972)に大貯水湖「永源寺ダム」が完成し、水利環境は改良され水事情は一変した。

 

ああ、やはり立退は…と感情移入しそうになったところで、こんな見方があるのかとハッとさせられました。

水利環境の改善は、単に水田用水を確保し、土地及び労働生産性の向上に寄与するばかりでなく、広く地域社会の発展、さらには人間関係の改善、人格の矯正にまで有効に働くことが理解できよう。まことに水利環境の改善の効果は偉大なのである。このことこそ、水利開発の最も大きな役割として評価する必要があるのではなかろうか。

 

水利環境の改善は、「広く地域社会の発展、さらには人間関係の改善、人格の矯正まで有効に働くことができよう。」

 

なぜこの国にデモが似合わないのか、なぜ半世紀以上前と同じ、水田が健在でどっしりとした家々があるのか

葛藤や争いを乗り越えた水利慣行の歴史に答えがあるのかもしれない、そんなことをこの箇所から思いました。

 

 

*おまけ*

 

30年ほど前に「反対運動が高まると、外から活動家が入り込むことで住民の亀裂が深くなる」と伺ったことを思い出しました。

 

 

 

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