落ち着いた街 60 ここにしかない垳川

地図で葛西用水路をたどっていた時に、つくばエクスプレスの南側に「垳」という地名と「垳川」を見つけました。

なじみのある漢字の「桁」とも違います。

自分の記憶力のなさに呆れるのですが、なぜこの「垳」という場所に惹きつけられたのか数ヶ月前の記憶がありません。

 

とにかくこの場所と川をみてみたい、5月下旬につくばエクスプレスに乗りました。

地下から地上の開けた風景になった場所が垳地区で、葛西用水路を越えて八潮駅に到着しました。

駅前の広々した公園ではのんびりと過ごす家族づれの姿があって、そこから葛西用水路へと入ると現在は用水路沿いに新たな公園計画があるようで、残念ながら用水路のそばを歩くことはできませんでした。

でも、葛西用水路の歴史が大事にされて親水公園になることはうれしいですね。

 

 

 

*都県境の垳川*

 

 

葛西用水桜通りをしばらく歩くと、横断するように木が生い茂った場所が見えます。

一級河川 垳川(がけがわ) 小溜井引入水門橋」と表示がありました。

水門があって、垳川と葛西用水路が交差している場所です。

この垳川がさらに東へと流れると中川に合流し、その対岸にはあの水元公園があります。少しずつこのあたりの複雑な水路が頭に入ってきました。

 

 

さて、垳川の橋を渡ると南側の地域は葛西用水路に沿って森と遊歩道が続き、住宅地には嵩上げされた畑がありました。

垳川沿いに西へと歩くと、大きな木が残る昔からの農家でしょうか、立派な屋敷とその向こうに真っ赤な社殿の神社があり、川沿いの森が神明水の森公園になっていました。

 

公園の一角に立派な石碑がありました。

      神明六木遊歩道

 足立区と埼玉県八潮市の都県境を流れるこの垳川は 昔 綾瀬川の本流でした

 江戸時代以前の綾瀬川は 屈曲が多く 大雨になると付近一帯に大きな災害をもたらしました

 そのため 寛永年間(一六二四~四三)に内匠新田を起点をして新川が開削され綾瀬川はその姿を大きく変えていきました

 一方 新川の開削で支流となった古綾瀬川は 分岐点の内匠新田で堰止められ その後葛西用水の水を取り入れ渕江八ヶ村灌漑用水として利用されるようになりました

 また 享保十四年(一七二九)には 下流中川との合流点も遮断され 川としての機能は失われてしまいました

 以来 この旧河道を「垳」「小溜井」と称していましたが 昭和四十四年一級河川に指定され「垳川」となりました

 現在では 用水としての役割も終わり 岸辺に自生した樹木が繁茂し落ちついた景観をつくり出して区民の憩いの場となっています

 足立区では、この自然環境を大切に保存していくために「武蔵野の路」に指定し遊歩道として 後世に残すことにしました

  昭和六十二年三月十五日   足立区

 

そうでした、都県境の川でした。

 

*「垳」*

 

Wikipedia垳川に、「垳」という文字はこの川と地名以外に使われていないことが書かれています。

 

綾瀬川の旧河道になぜそのような珍しい漢字が使われたのでしょう。Wikipedia「垳」の由来に説明がありました。

「垳」という文字はJIS第二水準漢字であるが、この地名ならびにこの地を流れる垳川の名を表記する以外には使われない。国字であり、地域文字とされる文字である。

この字・読みの起源について八潮市は1981年に「第2次八潮の民俗調査」の調査報告書の中で水がカケ(捌け)る様子を意味しており、水が流れるとき「土」が流されて「行く」という字を当てたものとしている。一方、早稲田大学教授で日本語学者の笹原宏之は、文字通り崖の意味であって河岸の斜面を意味しており、崖を意味する中世の漢字「圻」が字形揺れによりこの地では「垳」に変化して定着したものという見解を発表している。

 

「地域文字」という漢字があるのですね。

この地域と垳川にしか使われていないというのにパソコンでもすぐに転換できました。

 

 

都県境を気にしていなかったので、垳川の両岸ともにゆったりした同じような住宅地に見えましたが、境界線が引かれたことでこの川とともにどんな歴史があったのでしょう。

 

 

 

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