水の神様を訪ねる 105 狩野川左岸下流の水神様たち

我入道と狩野川の河口を訪ねることができて満足し、牛臥海岸バス停から沼津駅行きのバスに乗り、狩野川にかかる橋の手前の吉田バス停で下車しました。

地図で2箇所ほど「水神」とつく場所を見つけたので、ここから狩野川左岸の堤防沿いに歩けるだけ歩く計画です。

 

 

*「堰下公園」の水神社と「里の史」*

 

堤防の上は車道がないので、美しい山と狩野川の川面を眺めながらのんびりと歩くことができました。

最初の水神様は、バス停から2kmほどのところにあります。

北へ向かって流れていた狩野川に黄瀬川が合流したあと、大きく弧を描いて南西へと流れを変える「羽」のような場所で、「堰下公園」のなかにあるようです。

「堰」と「水神社」、どんな歴史があるのでしょう。

 

右手の山がぐんと近づいて住宅地が終わりそうな場所に小さな公園があり、隅に鳥居と小さな祠が見えました。

その手前に石碑があります。

 里の史

 翠巒を背に清冽な狩野川の流れに臨む桃源境さながらの香貫山周辺に人々が住み始めたのは、今から二千年昔弥生時代中期である。

 中瀬区内からも当時使われた弥生式土器が出土し農耕を主とした生活をしていたことが推測できる。次の古墳時代に入ると現在の禅頭久保から天神洞にかけて見られる多くの円墳は有力者の墓地であったことが知られ、これらの古墳から出土するガラスや瑪瑙等で作った玉類の頸飾、金環の耳輪、直刀、土器類等によって当時の文化の様相が窺える。

 奈良平安時代には玉造郷と呼ばれ近くに式内社玉造神社もある。

天神洞からは鎌倉初期の瓦類も出土し伊豆韮山の願成就院出土品と類似なる点注目に値する。下って江戸時代には用水路内膳堀が設けられてその取り入れ口が当区内にあり、堰下の地名が生まれた。以降平和素朴の農村集落として生き継ぎ近代になっても水車の廻る静かな村落であった。

明治二十二年四月の町村制施行に伴い楊原村の一部となり大正十二年沼津町と合併して沼津市を構成した。昭和三十三年の狩野川台風では殆どの家屋が浸水の大被害を蒙った。併し近代の転化現象のもと昭和四十四年矢田唯雄氏を委員長として役員諸氏の努力により画期的区画整理が行われ、現在の市街を形成したことは衆知のところである。

 茲に碑を建てて区史を後世に伝うるものである。

              沼津市

 

簡潔な文章で、また風景が違って見える内容でした。

「堰下」は「江戸時代には用水路内膳堀が設けられ」、狩野川からの取水口だったようです。

 

そして帰宅して見つけた牛臥海岸の水門についての先人の記録に、「昭和中期の香貫用水・内膳堀」の図がありこの香貫山の南西側の地域にくまなく用水路が張り巡らされていたことを知りました。

 

堤防のすぐ下にある水神社に参拝し、この地域の平和で静かな暮らしを祈りながら次の「水神」へ向いました。

 

 

*「水神道バス停」へ*

 

また堤防の上の道に戻り、狩野川と対岸の市街地、そして遠くの「翠巒(すいらん、みどり色の山並み)」を眺めながら「羽」のような場所をぐいっと曲がると左岸側は香貫山の山裾に造られた道になりました。

 

本当はここで黄瀬川の合流部を眺めるはずでしたが、当日の記録も記憶もそして写真もありません。

そうそう、ここは堤防の道と香貫大橋からの道路と県道139号線が複雑に交わる場所で、堤防の道を歩いてきた歩行者はどこを渡れば県道の歩道へと行けるのか戸惑う場所だったことを思い出しました。それに気を取られていたことと、おそらく堤防が高くなっていて、合流部は歩行者からは見えなかったのだろうと思い返しています。

二つの川から濁流が押し寄せてくれば、山へとぶつかる場所でしょうか。

 

ゆるやかに蛇行している狩野川が東西に少しまっすぐになったあたりでは、道は川よりも高い場所になりました。河岸は崖のようになっているのでしょうか。

そして狩野川がふたたび大きく流れを変えるあたりに目的の場所がありました。

「水神道バス停」です。

 

地図には神社は描かれていないのですが、狩野川が南西へと大きく蛇行しそこへ柿田川が合流するところのすぐ近くです。

 

小さな切り通しのような場所があり、白い小さな鳥居とその前にバス停とカーブミラーが見えました。

鳥居には「水神」と赤い文字で描かれ、切り通し川側の小高い場所に石の小さな祠が見えました。

 

真っ青な秋晴れの空を背景に、鎮守の森のような木々とススキの穂、そしておしろい花が美しい水神様でした。

 

狩野川沿いに柿田川湧水地へ向かったときに対岸に見えたのが本城山で、その南西側の部分はかつて長細く小高い場所が続いていたのでしょうか。

ここもまた狩野川の濁流と柿田川の水が流れ込んで山にぶつかる場所ですから、水を鎮めるために祀られたのではないかと想像しました。

そして近代になって道路を作るために切り通しにした時に、鳥居を道側に作った。

そんなことを考えながら、水神道バス停からバスに乗りました。

 

 

狩野川左岸の水田地帯を走る*

 

ここから三島駅に向かうのに、せっかくだからもう少し狩野川左岸地域を見てみたいと思い、大平行きのバスに乗りました。

住宅地を抜けると、山と狩野川に挟まれた場所に田んぼが広がり始めました。

地図で見ると山からの何本かの小さな流れが水路になっているようです。

ここにもまた整然とした田んぼと街がありました。

 

また小さな切り通しを超えると、終点の「大平バス停」で、それまでたくさんいた乗客がいつの間にか私一人になりました。

 

田んぼの向こうに狩野川の堤防が見えます。まだ黄金色に輝く田んぼがあちこちに残っていて、真っ赤なコンバインを操縦している女性の姿が見えました。

かっこいいなあと思いながら、先ほどの切り通しにある政戸(まさど)バス停から三島行きのバスに乗り、今回の散歩が終わりました。

 

東海道新幹線の車窓から見える三島駅周辺の、ゆったりと山と平地が広がり陽光が明るい風景が大好きなのですが、今回は狩野川左岸のその山裾のあたりの風景と暮らしと歴史を知ることができました。

 

帰りはもちろん新幹線のA席で、トンネルに入るまでその風景を眺めたのでした。

 

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら

新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら