狩野川河口左岸の我入道地区は、風の音がするだけで自分の足音さえ騒音になりそうなくらい静かです。
八幡神社から我入道海岸へは、住宅地の細い路地を通らせてもらいました。
途中、漁業関係の小屋でしょうか、木造の倉庫があります。どこからか潮の香りがしてきます。
海辺の防風林が近づきそこを抜けると海岸で、海のそばへ行くのは楽しいものです。
防風林の中に、何かまた大きな石碑がありました。
「魚族供養塔」でした。
夫れ広い海岸にて生を受け群集して伊豆駿河の海に寄集し永住の海として
晝となく夜となく遊泳せしも育成して我等漁民の手によって献体され
我等人類の命の源となられたその尊い生命よ我等漁民の郷土建設に貢献された魚族に対し
我等漁業者相計りここにその萬霊を永久に供養せんと塔を建てるものなり
霊よ来たりて これを受けよ
昭和六十二年十一月 撰文 組合長理事 芹澤亀夫
1987年(昭和62年)、食べるものにも困ることなく、タンパク質が足りないよという時代からわずか三十数年ほどで飽食の時代になった頃です。
当時、私は東南アジアの漁師さん達と出会ったことがきっかけで、日本は近海だけでなく世界中の海から魚を取りすぎてきたのではないかと批判的に漁業を見るようになっていました。
同じ頃にこうして魚の生活史を思い、魚に感謝し供養をされていた漁業関係の方々もいらっしゃったのですね。
赤誠という言葉が生きている仕事でもあるのかもしれません。
社会が発展する反面で犠牲になるものごとがあり、道や橋までも「供養する」という発想があることを散歩をするようになって知りました。
*おまけ*
「我入道」を検索すると、「出家した人に向かって、親愛の気持ち、また軽んじる気持ちを込めて用いる語」(goo辞書)とありました。
出家した人への相反する気持ちと聞いても、ピンとこないくらい何かが驚異的に変化した時代だと痛感しますね。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。