水の神様を訪ねる 104 我入道の八幡様と「義魂碑」

沼津駅から9時45分のバスに乗り、江川町バス停で下車しました。

東側から流れてきた狩野川がぐいと南へと向きを変えて「細長いSの字」のように流れたあと、河口へ向かって西へ曲がるあたりから我入道地区のようです。

電柱には「ここの地面の高さ 海抜2.5m」「津波により想定される浸水深 この地面から2~3m」の表示がありました。

 

狩野川の堤防の方へと近づくと、3~4mぐらいのコンクリート製の防潮堤が続いています。

途中、ドアがあり「ここは物揚場です。漁業関係者以外はいらないでください」と書かれていて、開いていたところへ近づくとその向こうに川面が見えました。何ヶ所か漁船の船着場があるようです。

地図にはここと沼津港を結ぶ「我入道の渡し」があるようですが、残念ながらこの日は休みでした。

 

 

八幡神社

 

緩やかな坂道を西へ上ると、鎮守の森に古い石の鳥居がありました。

急な石段を登ったところに珍しい真っ白に塗られた社殿があり、ぐるりとその周りを歩くことができて狩野川の河口と富士市の工場地帯まで駿河湾を一望できました。

秋晴れの空に富士山と駿河湾狩野川の河口、美しい風景です。半世紀ほど前は、製紙工場からの排煙で富士山の麓は霞んでいた記憶が嘘のようです。

 

  由緒

由緒及び創立は詳でない

狩野川河口に御鎮座している為、海上安全・大漁満足のご利益をご祈願し、海の守り神として崇められている。

我入道の総鎮守・氏神さまとして地域の安泰と発展の為また氏子住民の家内安全・生業繁盛の為に祀られ、厚い崇敬を集めている。

現在、静岡県神社庁の十等級に列している。

 

地図で見つけた八幡神社ですが、八幡神社というと宇佐神宮を思い浮かぶようになりました。

海上安全」の八幡様もあるのですね。

 

 

水難救助の「義魂碑誌」*

 

念願の狩野川の河口を眺めることができて満足して石段を降りると、鳥居のそばに大きな石碑とその説明がありました。

    義魂碑誌

 我入道地先狩野川河口は雄大秀麗な富士のもと 稀有の水源地帯柿田の湧水が駿河湾に注ぐ天下の景勝港であるが ひとたび海怒り波浪逆巻く時は練達の航海士と雖もしばしは難破の憂目をみるところでもある

 淵原遠く 難破船救助と愛郷の一念に燃え結集した若者達は 爾来幾星霜 顕著な功績を残しつゝ我入道青年團水難救助部を経て日本水難救済会沼津救難所へ發展してその榮光の歴史は 廣く内外に喧傳され また長く我入道の傳統となっている

 しかしこの社会的大事業も多くの救助部員の赤誠と身命を捧げた尊くも悲しい痛恨の上に築かれたものであった

一、明治三十八年五月十八日 芹澤熊次郎君 二十才

 榛原郡相良の帆船が河口を航行中 南時化の激浪をうけ遭難 この救助に赴き犠牲となる

一、大正十一年三月二十三日 川口一郎君  二十三才

              芹澤常吉君  二十一才  

              鈴木弥作君  十九才

              平野忠常君  十九才

 東京湾汽船会社の客船豆州丸が強い西風による激浪と悪潮のため河口の浅瀬に坐礁 この救助の際犠牲となる

一、昭和二十一年二月五日  岩崎榮太郎君 二十八才

              後藤勝男君  二十二才

              芹澤義次君  二十才

 我入道の小舟百余隻が折柄豊漁のイカ釣り中 夜半強い西突風に遭い 河口の浅瀬でつぎつぎ轉覆 この救助に出動し犠牲となる

 このたび曽ての同志相計りこゝに我入道浮輪会を發足させ 先達の遺志を宣揚せんとす

 今宿縁の河畔に殉難の略誌を留め郷土發転の先駆者として また我入道に生きる者の亀鑑として 永くその偉業を讃えんとするものである

 昭和四十七年七月一日   我入道浮輪会

              我入道 區

              我入道漁業協働組合

 

1889年(明治22年)に発足した日本水難救済会の歴史とつながりました。

「義魂碑誌」は新しい石碑に見えたのですが、すでに半世紀の時を経ていたもののようです。

 

「赤誠」初めて知った言葉ですが、「いつわりのないまことの心」という意味だそうです。

1972年、工業国へ、先進国へと進み出していたあの頃、漁業関係者の皆さんにとっては海や空が汚れ、生業もままならない時代に、どんな思いでこの碑を造ったのでしょうか。

 

 

地図で見つけた八幡神社は、期せずして海の安全を守る神様でもいらっしゃいました。

 

 

 

 

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