なら歴史芸術村から坂道を下りて、両側に田んぼの広がる県道51号線沿いに南へと歩き始めました。
暑いけれど、田植えの終わったばかりの田んぼを見ていると元気が出ます。
左手が森になり、案内板がありました。
史跡杣之内古墳群 西乗鞍古墳
西乗鞍古墳は杣之内町(そまのうちちょう)に所在し、当方の東乗鞍古墳や西北行の小墓(おばか)古墳とともに一群を形成しています。杣之内古墳群では西山古墳群に次いで2番目の大きさです。
墳丘は前方部を南に向けた前方後円墳で、全長約118mあります。この墳丘の周辺には、周辺より一段高い幅広い基壇状の平坦地が墳丘を一周するように広がっており、その規模は南北約165mに達します。埋葬施設は明らかになっていませんが、横穴式石室である可能性が想定されています。
これまでの測量調査・発掘調査により、墳丘が上下二段の斜面で造られている可能性が高いこと、周濠と外堤が埋没して現在の広大な平坦地が生まれていること、外堤のさらに外側にも掘割がめぐっているらしいことなどが確認されています。円筒埴輪・形象埴輪・土師器・須恵器などが出土しており、5世紀末頃に築造された古墳と考えられています。
西乗鞍古墳は同時期の古墳としては大王墓(だいおうぼ)に次ぐ規模を誇っており、王権を支えた有力豪族の首長墳にふさわしい規模を有しています。
西乗鞍古墳が終わったところに運動施設があり、大学生が自転車で出てきました。その奥に東乗鞍古墳があるようです。
この時には案内文と図をよく読んでいなかったのですが、どうやら県道51号線のあたりは、かつての周濠でしょうか。
16世紀後には周濠に車が通り、古墳の敷地で大学生が運動をしている。
古墳の主も想像しない世界ですね。
*乙木集落の溜池と水路と神社*
県道51号線沿いに南へと歩き、どこから山の辺の道に入ろうかと思っていると、真っ赤な鳥居が県道沿いにありました。
参道がまっすぐ山の方へと続いています。その脇にある水路に惹きつけられました。地図には描かれていない水路です。
県道からわずか300mほど先に溜池の天堤が見え、そこからの水路なのですが、数メートルごとに人の手によって造られた段があり豊富な水が流れています。
「いにしえより水に乏しい奈良」のいつ頃の溜池でしょうか。
この参道からも山の辺の道に入れそうでしたが、しだいに熱中症になりそうな暑さになってきたので、目指す環濠集落へは予定していた道から入ることにして先を急ぎました。
帰宅してから写真と地図を照らし合わせると、ああやはりこちらの道も歩いてみたかったと後悔しています。
溜池のそばに地図では「夜都伎神社」と表示されていますが、Wikipediaでは夜都岐神社(やつぎじんじゃ)の説明がありました。
乙木には元は夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を約400m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社1社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられる。
乙木村は、古くは興福寺大乗院及び春日大社領の乙木荘で、そのため春日大神を当地に勧請したものと見られる、約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳があり、当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われている。
県道の山側に続くなんの変哲もない集落のように見えて、興福寺と春日神社の荘園というだけで1300年ぐらいの時間に圧倒されるのに、「古墳を削平して神社を造営」するなんて。
古墳時代から奈良時代へ、そしてその風景が少しずつ変わりながらも続いていることに圧倒されるのが奈良の道ですね。
そして、江戸時代末期まで「蓮の御供」という神饌(しんせん)を献上していたという一文に、山沿いの池に蓮の花がゆれる風景を想像して惹きつけられました。さぞかし美しい風景だったことでしょう。
*山の辺の道を通って竹之内環濠集落へ*
真っ赤な鳥居をあとにしてさらに200mほど県道沿いに歩き、山の方へ曲りました。吉野川分水東幹線水路の暗渠を超えると、周囲は田植えが終わったばかりの美しい田んぼが緩やかに段々になっています。乙木集落の南側の地域で、二つある溜池からでしょうか、分水路がありました。
美しい灰色の瓦屋根と焼杉の木壁の家々が、なんとも静かで美しい風景です。
振り返ると、ほんの少しだけ低い奈良盆地の中心部とその向こうの金剛山地まで、さえぎるものもなく見えます。
畦道には紫陽花や白いグラジオラスが植えられ、この花々が手入れされているのも、ほんと日本各地の農村の美しさの一つですね。
緩やかに蛇行する細い道を選んでみました。
しばらくすると、赤い表示があり、どうやら期せずして山の辺の道に入っていたようです。
「天理 石上神宮 2.7km」「長岳寺2.8km 桜井」とありました。
いつか、山の辺の道を全て歩いてみたい。歩くだけで心がしんと穏やかになる道です。
草むらの向こうに灰色の屋根瓦が見えてきました。
東へと曲がると、地図にある堀が見えてきました。
いよいよ環濠集落を訪ねます。
ふと、私はどの時代を歩いているのだろうと少々混乱するこの感覚。ここに惹かれて歩いているのかもしれません。
*おまけ*
「夜都伎」か「夜都岐」か、はたまた「やとぎ」か「やつぎ」「やつき」か。日本語はほんと難しいですね。
以前は、そろそろ統一したらいいんじゃないかと思っていたのですが、あちこちの案内板を読むようになって、このどちらも歴史であり、それを後世の人がわかりにくいからと変えてしまうのはどうなのだろうと思うようになりました。
さて、デジタルとかAIとかはこの歴史の葛藤を表現できるでしょうか。
「落ち着いた街」まとめはこちら。
周濠のまとめはこちら。
蓮のまとめはこちら。
生活とデジタルのまとめはこちら。