存在する  19 引っ越す

川や海、そして用水路や田んぼを訪ねて散歩をしていると、こんなところまでと驚くような場所も手入れされ、家があり人が生活をしています。

きっと何世紀ものその家や集落の歴史をたどっていけそうなほどその土地と一緒に生きてきたのかもしれませんし、先祖伝来の土地や文化を守ってきたのだろうと圧倒されます。

 

かたや私はと振り返ると、成人してからも最初の頃は2〜3年ごとに住む場所を変えていました。

2年ほど居ると次第に落ち着かなくなり、なんだかそこに居続けてはいけないような気持ちになってくるのでした。

もちろん、当時の女性が部屋を借りることも不自由だったという時代背景もあったとは思いますが、20代の頃はそれこそいつでも引っ越せるように最低限の荷物で、転勤族だった親の影響が大きいのだろうと思っていました。

 

国内だけでなく海外でも、先祖伝来の土地にすむ人たちに圧倒され、自分の居場所とも違うといつも葛藤がありました。

今でこそ同じ地域内に長く住むようになりましたが、それでもこの土地に骨を埋めるという気持ちでもなく、どこにいても跡かたもなくこの世から消えるほうがいいなと思っています。

最期の最期まで、引っ越しの人生だろうと。

 

自由で何ものにもしばられないと言えば、なんだか新しい生きかたのように聞こえそうですが、土地や先祖あるいは家や家族という結びつきがしっかしりしている生きかたに比べて、こんな風来坊の生きかたは私自身に何か問題があるのかと少し引け目を感じていました。

 

*もう少し長い目で見てみると*

 

散歩をしているうちに、目の前の何世紀も続いているように見えるどっしりした集落も江戸時代の新田開拓だったり明治から昭和の干拓事業で定着していった集落だったりすることがわかりました。

あるいは紀伊半島から房総半島へ漁師が移り住んだように、一世紀とか二世紀の間に引っ越してきた場所もありますし、海外で一旗あげようと移民になることを選んだ方々もいます。

 

細かなところを見ていくと、「先祖伝来の」というのはかなりあいまいなイメージなのかもしれないと思うようになってきました。

 

引っ越しが多く、いつも「ここじゃあない」という生活でしたが、決して引け目を感じる必要もなく、もしかしたらいつの時代にも生活の場所を求めて移動していた人が多かったのではないか、そんな気がしてきました。

 

散歩をしていて落ち着いた街と感じるのも、いろいろな人が移り住んだゆえにできあがったという面もあるのかもしれませんね。

 

 

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