美味しい三輪そうめんと親子丼で元気が出て、また歩き始めます。
地図を眺めて計画を立てていた時に、2年半前に歩いた大和川のさらに上流を歩いてみたいと思っていました。
近鉄長谷寺駅の近くで北の山中にダムがありそのあたりが大和川の水源地かと思ったら、まだまだ流れが続いています。Macの地図では最大に拡大してももう川の名前すら書かれていないので、どこが源流なのか見失いました。
Wikipediaの「大和川」によれば、「貝ケ平山(かいがひらやま、標高822m)近辺が源流」と書かれているので、そのダムから1kmほど上流で北東へと分かれている川が本流のようです。
一級河川ですが、案外と低い山に水源地がありますね。
さすがに源流は無理ですが、そのダムの近くまで歩けたらと思っていました。
*海柘榴市から仏教伝来の地へ*
大神神社の参道から山側の道へと入り落ち着いた住宅地の間を抜けると、天理教の大きな建物がありました。そのあたりから南側が一段低いように見えたのは大和川の河岸段丘でしょうか。
一旦、国道199号線に出て北へと歩くと細い旧道がありました。蛇行した道の両側に落ち着いた街並みが続いています。
しばらく歩くと「海柘榴市(つばいち)」「海柘榴市観音」の表示がありました。
ここよりももう少し山側に山辺の道もあるようですが、先を急ぎました。
このあたりから南側は水田地帯になり、その向こうに大和川が流れています。堤防には桜が植えられていて、その一角に「仏教伝来の地」の石碑がありました。
仏教伝来の地
ここ泊瀬川畔一帯は、磯域瑞離宮、磯域嶋金刺宮をはじめ最古の交易の市・海柘榴市などの史跡を残し、「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でありました。
そしてこの付近は、難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。
「欽明天皇の十三年冬十月、百済の聖明王は西部姫氏遠率怒唎欺致契等を遣して釈迦仏金銅一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯域嶋金刺宮に向かったとされています。
この場所は、仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であります。
また、「推古天皇十六年、遣隋使小野妹子が随使裴世清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬七十五頭を遣して海柘榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でした。
私たちはこの地の歴史的由緒と、優れた日本文化を生み出す源流となった仏教伝来の文化的意義を、広く後世に留めさせるため、ここに顕彰碑を建立しました。
平成九年七月吉日 日本文化の源流桜井を展く会
「泊瀬川」という呼び名もあったのですね。
上流を眺めると、低い山と山の間から静かに大和川が流れています。
半世紀ほど前、授業で習った記憶があるような「仏教伝来の地」が静かな山あいへの入り口のような場所だったとは、イメージとだいぶ異なりました。
海を越え、大和川を遡ってこの地まで遠い国と舟が行き来していた風景はどんな感じだったのでしょう。
川の舟運が過去の歴史になった時代以降に生まれた私には想像がつかないものです。
しばらく石碑の前のベンチに腰掛けて、静かな大和川の水面を眺めました。
仏教伝来の地に到着したのが13時50分、18000歩になり少し疲れたことと、日没まであと3時間ほどですから計画を変更することにしました。
近鉄大和朝倉駅から長谷寺駅まで電車に乗って初瀬の川合のそばを歩く予定でしたが、また次の機会にということにして、大和川沿いに大和朝倉駅まで歩きました。
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