水のあれこれ  191 松浦川の河川整備

松浦川河口付近でぐいと西の方へと流れを変え、その向こうに自然堤防のような場所が続く風景をこの目で見ることができて満足しました。

 

国土交通省九州地方整備局 武雄河川事務所の「松浦川の概要」に以下のように説明がありました。

その源を佐賀県武雄市山内町青螺(*せいら)山(標高599m)に発し、鳥海川等の支流を合わせながら北流し、唐津市相知(*おうち)町で厳木川(*きゅうらぎがわ)を合わせ、下流平野部に出て徳須恵川を合わせ、その後は唐津市中心部を貫流し、玄界灘に注いでいる。

流域は、佐賀県北西部に位置し、唐津市を始め、伊万里市武雄市の3市にまたがり、佐賀県北西部の社会・経済・文化の基盤をなし、治水・利水・環境上極めて重要な川です。 

(*読み仮名は引用者による)

 

佐賀から諫早へ向かう途中で渡った六角川塩田川、そして佐世保へ向かう途中に越える川棚川も、地図で見るとわずか数キロ四方の範囲に分水嶺が集まっているように見えます。

毎年の大雨はこうして距離の短い川へ集まり、三方の海へと一気に流れているのですね。

 

*1600年代の付け替えだった*

 

Wikipedia松浦川の「歴史」を読むと、河口にあるのは砂州や自然堤防ではなさそうなことが書いてありました。

戦国時代、現在の唐津市周辺には松浦川と波多川(現在の徳須恵川)の二つの川があり、松浦川は厳木方面から流れて鏡地区を通り、現在虹ノ松原駅がある場所に河口があった。波多川は伊万里方面から流れてきて現在の和多地区を通り、満島山の西側を通って唐津湾に注いでいた。西暦1600年頃、豊臣秀吉の命令によって唐津地方を統治することとなった寺沢広高が、満島山の山頂に城を築いた。この時に満島山の東側を掘って波多川河口とし、元の波多川を埋め立てて城下町を形成した。そして更に、度々氾濫を起していた松浦川と波多川を一本化し、堤防を築いた。

この際に松浦川と波多川の中間にあった荒地を掘って川の一部とし、鏡地区の松浦川と和多田地区の波多川の一部を埋め立てた。これによって二つの川は一本化され、松浦川となり、和多田地区と鏡・九里地区に新田が開発された。

 

1621年に始まった利根川東遷事業よりもさらに前に、この辺りの川の付け替えが行われていたようです。

現在の地図と上記の説明を突き合わせてみても、1600年代の川の痕跡がほとんどわからないですね。

昔の人の「川を付け替える」という発想のダイナミックさに、本当に驚かされます。

そして、あの虹の松原付近の「おにぎりがいくつできるだろう」と思った小さな水田も、この時代の新田開発によるものだったのでしょうか。

 

ああ、残念。もう一度、松浦川の河口周辺を歩いてみたいものです。

 

*現代の河川整備*

 

武雄河川事務所の説明では、1925(大正14)年から松浦川および支流のさまざまな河川改修が行われているようです。

 

現状の課題

松浦川中上流部、徳須恵川上流部、厳木川中流部は、依然として未整備地区が多く、洪水の度に氾濫被害が頻発しています。また、河川改修による河道の直線化により、川の多様性が消失している所もみられます。一方、河道内の著しい樹木繁茂は、洪水時の支障となることもあるため、樹木調整や河川巡視のほか、環境面からも総合的に経過観察のうえ、必要に応じた対策を講じなければなりません。

これらを踏まえ、安全でうるおいのある河川整備が急務となっています。 

 

松浦川の将来

平成2年7月洪水に相当する概ね30年に一回の確率で発生する洪水に対して、「破堤」「越水」等による浸水被害等を防止することを目標に整備を進めます。河川改修を行う上では、松浦川の良好な河川環境に配慮するとともに、藩政時代に築造された堰などの歴史的構造物の保全についても考慮します 

 

国土交通省の「水管理・国土保全」の松浦川の説明では、筑肥線の車窓から見えたあの広々とした佐里地区についても書かれていました。

唐津市佐里地区に自然再生事業として「アザメの瀬」を整備し、氾濫原における湿地の再生に取り組んでいます。厳木川合流地点下流付近から松浦大堰までの下流部は湛水区間となっており、川幅は、上流より徳須恵川合流地点まではやや狭く、その下流は広くなっており、松浦大堰から河口に至る河口部は広大な水面をゆうし、唐津湾に注いでいます。

 

 

以前は氾濫原の遊水地というと、水元公園の小合溜渡良瀬遊水地のような特別な場所を思い浮かべていましたが、川のそばを歩くようになって荒川の調整池ヨシ再生事業、あるいは境川遊水地谷地川など身近な川にも遊水地が川のそばに造られているのをしばしば目にするようになりました。

 

1990年代ごろから耳にするようになった河川の改修方法が、それぞれの川に合わせた方法で、長期的な計画によって実現し始めているということでしょうか。

 

 

たまたまJR筑肥線に並走する川だったのでどんな川なのだろうと思って検索したのですが、沿線の風景を思い出しながらその歴史と現代の管理にも圧倒されています。

 

 

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