ほとんどの散歩や遠出は、ほぼ計画通りに行きたいところを訪ねることができていました。
その日になってふと思いついて出掛けたような行き当たりばったりの散歩でも、以前から考えていたルートでもあるので、けっこういい結果になりました。
ところが昨年から今年は、緊急事態宣言の合間を縫って、感染症の動向を見極めながらでしたから、延期したり中止した計画もたくさんありました。
くわえてこの夏は例年になく雨続きでしたから、途中まで出かけたけれど引き返した散歩がいくつかありました。
今年に入って多摩川右岸の田んぼをあちこち見に行ったので、右岸でまだ歩いたことのない場所を訪ねてみようと思いました。
「東京湧水 せせらぎ散歩」の穴澤神社はまだ行ったことがなかったので、9月1日に京王よみうりランド駅に降りました。小雨はぱらついていましたがこのくらいなら大丈夫と出かけたものの、駅についたらとんでもなく肌寒く、19度まで気温が下がっていました。
羽織るものも持ってこなかったのでこれは無理となり、この日は多摩センター駅からモノレールに乗って帰りました。
多摩センターから高幡不動間はまだ乗ったことがない区間でしたから、山の間を開発された街を眺めることができたのは収穫でした。
9月初旬は連日雨でした。
小雨ぐらいなら散歩決行と出かけたら、乗る予定の路線で人身事故で中止になりました。
この急遽、別の交通機関を利用したおかげで探し物が見つかったのでよしとしましょう。
*「牛浜出水の図」*
今度こそと、日を置いてその場所を訪ねることにしました。
駅を降りた時に、黒雲が遠くの山にかかりかけて、少し雷鳴が聞こえ始めました。
東京アメッシュを確認すると、20分ほど前にはなかった雷雨のような雲が移動しています。
この散歩はまだ一部歩いたことがない玉川上水沿いを訪ねる予定で、牛浜駅に降りました。
駅から数百メートルほど南に歩くと玉川上水があります。その途中の交差点に何か説明板がありました。
「牛浜出水の図」
この絵図は、藤雲嶺という人物が安政六年(一八五九)に牛浜で起きた洪水を描いた鳥瞰絵図です。長雨のためにハケの湧水が五日市街道へと流れ出し、現在の牛浜駅付近から西側に水があふれた様子が描かれています。
往時は五日市街道を境として北側が福生村、南側が熊川村で、この道が村境に当たっていました。
作者の藤雲嶺は当地の渡辺家の先祖にあたる渡辺嘉平翁が江戸の学識者として招聘した人物で、牛浜に住居を構え、寺子屋を開いていました。
また、絵図の冒頭において、多摩川筋での被害状況、そして当地においては人命や家屋流失の被害には至らなかったこと、さらにこの惨状を後世に伝えるべく絵図にまとめた事を記しています。
この絵図には建物の様子が正確に再現されており、屋号の記述もあることから、当時の村の暮らしを良く伝える貴重な歴史資料として、市有形文化財に指定されています。
古民家風の家の壁に、数メートルはある長い絵のレプリカが掛けられていました。
「建物の様子が正確に再現」「当時の暮らしを良く伝える貴重な歴史資料」
本当に生活の記録は大事ですね。
そしてヒトが「惨状を後世に伝える」という社会への使命を感じ始めたのは、ヒトの歴史のいつ頃からなのでしょう。
ちょうど真っ黒な雨雲が近づいてきたので駅に戻りましたが、期せずして見つけたこの絵図だけでも十分な散歩になりました。
ということで、散歩を中断しても「転んでもタダでは起きない」記録でした。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。