記憶があいまいですが、以前はニュースというとただ「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」と淡々と報道していたような印象があります。
いつ頃からか「ニュース番組」になって、誰かが「すぐに詳しく説明する」ことが加えられ、さらにコメンテーター的な人があれこれとその件について語ることが多くなりました。
わからない状態に耐えることよりも、はやく「なぜ」を知りたいのがヒトの習性なのでしょうか。
その流れとは反対に、医療関係では1990年代からリスクマネージメントが浸透し始めましたから、原因究明とか対策というのはそんなに早く簡単に言えるものではないのに、と思うようになりました。
もうひとつニュースで変化したと感じるのが、一般の人の「気持ち」をニュースに組み込む場面が定型化されたことです。
事件があれば、近所の人あるいはそれこそ通りすがりの人にコメントを求めて、「〇〇ですね」と感想を引き出してニュースに入れることです。
街頭インタビューにおじけづくことなく応えている人が増えたことに驚くとともに、言葉にはならないものを無理に言わせて印象操作しているように見えてしまうのです。
もはやそれは、何が起きたかという事実からはかけ離れてしまっているのではないか、と。
*災害と戦争と、言葉になるまで数十年*
少し、前置きが長くなりましたが、昨日の記事で紹介した熊野誌の地震特集を読んでいて、災害の記録だけでなく戦争の記憶でもあったのだと思う記事がありました。
「東南海・南海地震を体験して」(田中弘倫氏)に、こんな箇所がありました。
また、那智勝浦町天満の故丹野幸吉氏は、自らは神戸にいたため直接津波の体験がなかったが、昭和41年、体験者の記録を「東海大地震津波の記録」(「東南海」か)としてまとめ、自費出版をしている。これも貴重な記録である。その中で特記すべきことをあげてみると、
「丁度大東亜戦争で空襲が激しいときで・・津波だと各所で叫ぶ声が、空襲・空襲の声と聞き誤り、あわてて、防空壕に逃げ込んだ者もあったようだ」そして壕の中にいた子どもが津波のために溺死した、と述べている。
(強調は引用者による)
そして当時子どもであった筆者が見た状況と、何十年もの間、その経験を思い返しながら今後の対応をどうしたらよいかという客観的な内容が書かれていますが、一箇所、ご本人の気持ちが書き綴られたと思われる部分がありました。
私はここから三輪崎国民学校まで歩いて通っていた。いまのJR の線路脇に江戸時代の末、水野忠央が奨励して植えたといわれるハゼの木が立ち並んでいて、このハゼにかぶれるとお袋が栗の木の皮を煎じて塗ってくれた。このハゼの木のそばを集団で、上級生の指示のもと黙々と学校を目指した。勝手気ままは許されなかった。昭和18年入学した頃から戦争は段々と悪化をたどりはじめていたが、そんなことは勿論知るよしもなく、「鬼畜米英打倒」というスローガンのもとただ戦争に勝つと信じ込まされていた時代であった。それだけに食べものがなくても着るものがなくても文句など言えなかったし、いま思えば「辛い」というよりもこれが「当たり前」と思っていたのかもしれない。よく、歯を食いしばって我慢していたと言われるが、世の中のことなど分かっていなかった私にとっては普通の生活と思い込んでいたのだろう。むしろ多少とも物心がついた戦後の方が苦しかったと思っている。
(強調は引用者による)
戦争と災害と、その記憶を行きつ戻りつしながら、鵺のようななにかを言葉にするまでには時間がかかったのだろうと思いました。
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