岩室駅からのんびり歩いていたら、残念ながらもう一つの巻郷土資料館に立ち寄る時間がなくなってしまいました。また次回の宿題ということで。
巻駅前から11時50分のバスに乗り、西へと水田地帯を走り、途中で北へと向きを変えて潟の山裾沿いを走ります。稲穂が美しい広々した風景です。
しばらくすると山の方へとバスが上り始めました。角田山の登山口のバス停があるようです。興味深いのは、この山あいの地名が「稲島」で、今はイチジクや柿などの果樹園がちらほらあったのですが、かつて潟が広がっていた頃は少し高台のような場所も水田だったのでしょうか。それとも収穫した稲穂が運ばれてきたのでしょうか。
また県道2号に戻って北上し、得雲荘バス停で下車しました。
*仁箇堤(にかつつみ)へ*
得雲荘(とくうんそう)、何か歴史的な建造物かと思ったらちょっとおしゃれな老人福祉施設のようです。
その前の道を田んぼを眺めながら水路沿いに西へと歩くと、森が途切れて目指す場所がありました。
予想よりは低い堤で、取水口の向こうに水面が見えています。
数段登ると、広々とした水草の浮いた風景が広がっていました。地図で見つけた「仁箇堤」で、現地の案内図で「にかつつみ」と読むことがわかりました。
ここから北東の水田地帯を潤すため池でしょうか。
「新潟市 潟のデジタル博物館」に説明がありました。
かつての鴨の猟場 仁箇堤
潟の概要
西蒲原区仁箇、角田山のふもとに位置するため池です。かんがい・防火用のため、江戸時代に築造され、いまだ農業の水源池として利用されています。
昭和後期は上堰潟が干陸化しており、周辺地区唯一の水辺でした。そのため、地域に愛される水辺となるよう、1987(昭和62)年から3か年計画で周辺の環境整備(あづま屋、遊歩道等)が行われました。また、全国に多数存在する、老朽化したため池の一つであったため、1994(平成6)年〜1996(平成8)年にかけて堰堤が改修されています。春には30本余りの桜が咲く、隠れた桜の名所でもあります。
1980年代から90年代、それまでの厳しかったドブネ農業から解放され、出稼ぎからも解放され、こうした余暇を楽しむ余裕ができたのかもしれませんね。
たまに車が通る程度で、周囲数百メートルには人がひとりもいないのではないかと思う静寂さです。
森に囲まれた美しい水面をしばらく眺めました。「潟のデジタル博物館」によると、水源は湧水だそうです。
*上堰潟公園へ*
満足して、今回の最後の目的地である上堰潟公園へ向ました。
北へ数百メートルほど離れているのですが、その間は田んぼだけなので公園まで見通せます。
遠くにうっすらと青く山が見えます。あのあたりは海のはずと思い、マップと照らし合わせてみると、どうやら佐渡でした。
ただ、草の多い畦道だったので一旦布目地区へ入り、上堰潟公園へと歩きました。公園が近づくと賑やかな声が聞こえ、たくさんの人が歩いているのが見えました。
小学校の遠足のようです。それ以外にも、遊びに来ている人が多いようです。
中心部は沼のようになっていて、西半分は水面です。
東屋に腰掛け、美しい公園と山と青い空を眺めながらおにぎりをいただきました。いつの間にか小学生がいなくなり、風の音だけになりました。
公園内には上堰潟の歴史が書かれたものは見つからなかったのですが、Wikipediaにありました。
上堰潟
上堰潟(うわせきがた)は、新潟市西蒲原区松野尾にある人造湖。
概要
角田山の北東端、佐潟の約2km南に位置する。農業用水用の灌漑用水源として利用されてきたほか、洪水調整機能をもつ。
1950年代には佐潟よりも広い湖面を持っていたが、1970年代前後の県営かんがい排水事業によって排水路が整備され、一時草地化した。その後、国の農業政策の変更によって農地化計画は取り止めとなり、遊水地としてかつての湖底が掘削されることになり、治水対策と自然保護を目的に1998年度に公園として整備された。
(強調は引用者による)
北側にある佐潟と比べると現在は4分の1ほどの敷地でしょうか。かつては佐潟よりも広い湖面で、昭和後期には干陸化されて仁箇堤だけになったものが、1990年代に入って治水と自然保護のためにまた「潟」の形に戻った。
これもまた、米作の驚異的な変化の歴史の中の試行錯誤だったのですね。
そして新”潟”の歴史でもあり、でしょうか。
一面潟だった時代の風景も見てみたかったと思う反面、静かで整然とした穀倉地帯が広がり、公園も水路も整備されている美しい風景は、やはり得難いものだと思いながら公園を後にしました。
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