今回の木曽三川の輪中の散歩では、祖父江町の利水神社など地図で見つけた水の神様を訪ねる計画もありました。
ただ、この現在の海津市の広大な水郷地帯ではマップを最大限拡大しながら神社を見逃さないように探しても、わずかしか描かれていませんでした。
海津市歴史民俗資料館で写した写真を見直していたら、「高須輪中の水神信仰」という展示がありました。
高須輪中の水神信仰
輪中の堤防を歩くと「水神(みずがみ)さん」と呼ばれる小さな祠(ほこら)が見られます。祭神はなんであれ、人々が洪水のないことを神に願う信仰が「水神さん」を生んだのです。
これらは過去に堤防が切れた所や危険な場所に多く見られ、その祭礼の多くは、かつて堤防の切れた月日に行われます。その他、中国古代の「禹王(うおう)」を治水の神様として祭る習慣もあります。
輪中の人々の防災意識を高める上でも、いつまでも残しておきたい習俗です。
(強調は引用者による)
21箇所の印が付けられた地図が添付されていました。
*数年に一度から100年に一度へ*
次に「近世以降高須輪中洪水年表」がありました。
資料館を訪ねたときは疲労感で写真を撮るだけ精一杯だったのですが、今見てみると圧巻の記録です。
「一五八六年(天正十四年)六月 出水高二丈、堤防残らず平沈み、木曽三川の堤百八十か所切入る。木曽三川の位置変わる」から始まり、「一九五二年(昭和二十七年)六月 海西村勝賀堤防決壊。決壊口五十メートル」まで記録されています。
その「一九五二年(昭和二十七年)」の記録の直前は「一八九七年(明治三十年)」で、55年間は大きな洪水の記録がないのですが、それまでは2~3年から10年ぐらいの間隔で記録が書かれていました。
さらに洪水の記録の中で被害が大きかったのでしょうか、二つの洪水についてのパネルもありました。
明治二十九年・昭和二十七年洪水
明治二十九年(千八百九十六)七月、大雨のため平田町今尾で揖斐川と、平田町勝賀で長良川の二か所が決壊し、高須輪中は水深四メートルを超える泥海となり、約五千戸が浸水しました。復旧工事中の九月に再び今尾で揖斐川が決壊し、水深は前のときよりさらに深く、家屋の流失・崩壊は二三〇〇戸を数え、一五〇〇人余が死傷しました。洪水に加えて台風が被害をさらに大きくし、高須町の小学校は七月二十一日から休校、八月九日に再開、九月七日から再び休校、九月二十八日に再開と記録されています。
昭和二十七年(一九五二)六月、台風に伴う豪雨があり、平田町の勝賀揚水機場を作るため、長良川右岸堤を掘り割っていた工事現場が決壊しました。浸水二千戸を超え、特に西江地区の低い水田は水深が一メートルを超え被害が大きくなりました。
「高須輪中は水深四メートルを超える泥海」
たしか、直前に訪ねた長島の輪中の郷の敷地に、見上げるような高さに「伊勢湾台風の水位」標識があったことを思い出しました。
この7年後の伊勢湾台風については撮らなかったのかそれとも高須輪中では被害が少なかったのでパネルそのものがなかったのか記憶が定かではないのですか、当日の写真の中には伊勢湾台風の説明は見当たりません。
この後の災害の記録として、1976(昭和51)年のパネルがありました。
9.12水害
昭和51年9月12日
今から約50年前、安八町(あんぱちちょう)で長良川の堤防が切れたときの洪水の様子です。
雨が続いて、必死に守った堤防が切れてしまいました。
高須輪中では、輪之内町と境の堤防をしめ切って、水が入るのを防ぎました。
写真には、家の一階部分が浸水した湖のような光景が映っています。
あの東海道新幹線の車窓から歩いてみたいと思っていた街です。やはり輪中なのですね。
数年に一度の洪水が50年に一度くらいになり、その被害も激減したのはやはり木曽三川分流工事によるものが大きいのでしょうか。
それにしても100年に一度という表現はこうした各地の記録がもとになっていることと、水の神様というのはアニミズム的というよりは古来からの災害の記録という科学的な何かだったのかもしれませんね。
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