お城のように堅固な石垣の上にある海津市歴史民俗資料館ですが、閲覧を終えて出る頃には「ここは城址ではなく水屋だったのだ」とつながりました。
なんといっても水深4メートルまで浸水した輪中です。
水屋の説明は今までもあちこちで見た記憶がありますし、直前に訪ねた輪中の郷では「輪中と水屋」という資料をいただきました。
4. 水屋
特に盛土集落に見られ、これも昔の人の知恵で、水屋の土盛り高は、だいたい母屋(当時の住居は、かやまたはわらぶきの平屋建)の軒高が基準になり、土手は石垣(時には二段石垣)または竹藪にしました。
これは、盛土の崩れを防ぐのが目的ですが、この竹を間引きしてえんどうなどの豆類、夏作胡瓜などのつるの手に使っていて、土手には榎や松の大木を1~2本植えて大切に育てていて、水害時母屋や流失のおそれのある道具類をつなぎ止めます。
年一回枝打ちをして餅つきの時のまきに利用します。
味噌部屋は古くは味噌やたまりを自家製造しましたが、この他梅干、ラッキョ、タクアンなどの漬物類をいつも保管し、水害避難時に土間にカマドさえつくれば居室の起居、米倉の米、味噌部屋の保存食で当座はしのげるようになっています。その他水害時用に上げ舟の備えもあった所もありますが、今では見られません。
建てる位置は、西、西北、北でこれは冬の季節風をしのぐため多少の不便をがまんして作られています。度々の洪水、水害に苦しんできた農民の生活体験から生まれたものです。
この水屋も、旧輪中を取りこわし手から明治中期に瓦屋根が出現するまで多く建てられました。農家が瓦屋根になると台風などの大風をさえぎるもののない平坦地に無理をして二階家を建て、この二階を水屋代わりにするようになりました。
水屋または二階家は日常生活に不便であり、無用の長物のように思われます。しかし、輪中に住む者の宿命と考えて常に心にとめなければならないものです。(以下、略)
(桑名市長島町、輪中の郷「輪中と水屋」より、強調は引用者による)
ほんとうに。
あのデ・レーケの友人が「医師」として「米を主食とする悪い習慣」と当時のこの地域の人の食事を断定してしまったのも、輪中の生活を知らなかったからかもしれませんね。
それぞれの生活を知らないまま、頭で考えた正論では現実の解決を妨げてしまいそうですね。
*「小作人のための助命壇」*
海津市歴史民俗資料館でも水屋の説明と古い写真がありました。
見上げるような石垣の上に建つ家の写真です。
この資料館がその水屋を模した高さと造りであることにようやく気づきました。
そして初めて目にする言葉がありました。
助命壇(じょめいだん)
洪水の時に水屋に避難できるのは、わずかの地主たちだけで、多くの貧しい農民たちは屋根裏に避難して水がひくのを待っていました。
しかし最近の調査によると「助命壇」、「命塚(いのちづか)」と呼ばれる共同の避難場所を持っていたことが分かりました。この写真の助命壇は、地主が小作人のために作ったもので、あまりれいがないものです。海津町本阿弥(ほんなみ)新田(本阿弥輪中)に今でも残されているこの助命壇は、地主の佐野家が江戸時代の文化二年(一八〇五)に作ったもので、当時の記録によると「人数二百二十人の人々の命を救いたい」とあります。
また村人が共同で土盛りして命塚と呼ばれる避難場所がありましたが、これらは現在残されていません。
3mぐらいの石積みの上に水屋が建ち、そこまでに石段と途中に少し広い場所が映っています。
ここに小作人たちが身を寄せて、洪水の水がひくまで退避したのでしょうか。
現在でも各地の洪水のニュースには心が千々に乱れそうになるのに、わずか70~80年ほど前までも「浸水二千戸」の被害があったのですから、ほんとうに過酷な歴史ですね。
歴史民俗資料館を出て石段を下りると、目の前には広大な水郷地帯が広がっています。もう一度石垣の上を見上げてちょっと気が遠くなりました。
*「伊能忠敬 海津を歩く」*
海津市歴史民俗資料館の圧倒される展示内容がまとまった本がないか探しましたが、出版されていないようです。
その代わり、「伊能忠敬 海津を歩く」(海津市歴史民俗資料館、平成18年)という資料が販売されていたので嬉々として購入しました。
さて、伊能忠敬が海津市内を測量したのは第八次測量(九州第二次測量)の記録にあたり、文化十一年(一八一四)三月のことである。四日市から本隊と支隊に分かれてそれぞれ桑名・多度経由、菰野・上石津経由にて海津に到着している。本隊は高須荒物屋七右衛門方に止宿し、支隊は今尾材木屋藤七方に止宿したという。この事実が明らかになったのは、平成十六年(二〇〇四)海津市出身の永田武氏(東京都在住)がアメリカ議会図書館で発見された伊能大図に着目し、調査研究をすすめられたことによるもので、氏の熱意に深く敬意を表したい。(以下略)
ほんと、世の中は先人の関心と記録、そして市井の人の正確な記憶と記録を残そうとする熱意によって成り立っているのだとつくづく思うこの頃です。
その資料の中にこんな箇所がありました。
B. 伊能忠敬の観察と伝聞について
「(輪中の名は)百八輪中といい、一周一三里程、南北三里、東西一里余、三郡(石津郡・海西郡・安八郡)が入り組んで、この輪中は旱で沼田が多い」といっている。そして「洪水には軒下まで水がつく。家も土蔵も石垣を高くして二階、三階に作る」と述べている。この事前認識があって、洪水が起こりやすい時期を避けたようにも思われる。
(同資料、p.14)
当時はまだまだ現在の鉄道の空白地域に大小不定形の輪中がぎっしり描かれているような時代だったでしょうから、伊能忠敬はどのようにここを歩く計画を立てたのでしょう。
そして、この地の人はどんな思いで伊能忠敬を宿泊させ、何を語ったのでしょうか。
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