せせらぎ館へ行く前に、その東側にある神社へと向いました。
堤防道路沿いに長細い参道があり、赤い屋根の小さな社殿が見えます。お狐様が2体多摩川に向かって立っていますが、金網で守られています。
枯れ葉がその金網についていたので、もしかすると川風で飛来してくるものから守るためでしょうか。
お手水は、懐かしい手押しの井戸でした。
河口から20kmぐらい離れていますが、真水が湧くのでしょうか。
すぐ向こうに、冬の日差しに真っ青な美しい多摩川が流れています。
ヒューヒューと風の音が響くのですが、案外と川面は穏やかでした。
古い大きな石碑がありました。
船島稲荷社のゆかり
聖なる母多摩川の川辺に古く 中の島現在は舟島と云うふるさとがある此の地を開拓した我等の祖先は堤の近くに信仰の氏神として稲荷社を祀った治水興農の守護神として爾来幾百年しばしば暴風雨水害に見舞はれ度々境内を移したりした。昭和十二年境内は決壊して樹令数百年に及ぶ神木は流され社殿は水浸しとなるも常に霊験加護を信じ神徳に浴さんとする氏子の信仰心を結集し社を復興して今日に到ったのである。稲荷社の歴史は信仰を持ちつつ自然と共に生きてきた吾等の祖先の足跡とも考へられる「日の本は神の国なり神まつる昔のてぶり忘るるなゆめ」とその歌にあるように今も参詣人がたえないのである。教聖初代不動協会長関山盛衆師も有力な信者の一人である先に氏子一同相計り本殿を近代風に改築し神徳を礼賛し今亦拾周年を迎えるに当り玉垣をめぐらして神域を整え景仰の誠を捧げ遺風を顕彰しようとするものである。茲に一文を草し以って崇敬の年を表する所以である。
昭和五十四年十一月吉日
船島稲荷社改築拾周年記念委員会 委員長 田中交司 選併書
1979年(昭和54)に改築10周年ということは、1969年に改築したわずか5年後にあの1974年(昭和49)の多摩川決壊があったのですね。
「日の本は神の国なり神まつる昔のてぶり忘るるなゆめ」
「てぶり」には「ならわし、風習」(weblio古語辞典)という意味があるようです。
おそらく忘れた頃にやってきた災害で、ちょうど高度経済成長期に入って自信に満ちた社会に警告がなされた。
そんな感じでしょうか。
ああ、そういえば同じ神の国でも全く違う方向への「神の国」が世の中にはびこりはじめましたね。それが現在に至っているのだと。
それにしても、私が10代終わりの頃に造られた石碑ですから書かれた方は私の両親か祖父母の世代だと思いますが、なんと難しい言葉や漢字を使っていることでしょう。
そしてそれは知識だけでなく、実際の経験として覚えてきた言語だったのだろうと思い返しています。
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